身近な仏教用語
合掌はもともと、サンスクリット語のアンジャリ( अञ्जलि )という言葉で、意味は「捧げる」といったものでした。 それが仏教にも取り入れられ、後世に漢字へと訳された際に「合掌」と表記されるようになります。 また、時代を経ていくうちに、合掌にはいろ…
アタリ、ハズレ、あるいは順番などを決める際に便利な「あみだくじ」。 人数分の線を引けば必ず全員が別のゴールに行き着き、かつ「どこに行くかな~」と指で線をなぞるときのゲーム性を秘めたあみだくじは、盛り上がりと平等性と簡易性が相まって、年代を問…
本来の意味は言葉どおり「禅の問答」、すなわち、禅僧らが交わしてきた悟りに関する言葉や動作のやりとりである。 けれどもそこで交わされるやりとりがあまりにも非論理的・抽象的であることから、「意味のわからないやりとり」を指す言葉として禅問答という…
辞書に書かれている「肉食せずに菜食すること」という意味は、精進という言葉の2番目の意味となっており、1番目ではない。 では1番目にはどのような意味が書かれているかというと、こう書いてある。 「修行に励むこと」 そう、精進という言葉の意味は「修行…
通常、世間一般的な理解としての輪廻は、おそらく次のようなものである。 人は死後、肉体や物質的なものではない精神的な何か、いわゆる魂とよばれるようなものが身体から抜け出し、別の命に宿り、次の人生を生きるようになる。それはこの人間の世である場合…
「ソーナ、あなたは出家する以前、琴を弾くことが巧みだったという話を聞いたことがあるが、そうだったろうか?」 「はい、多少なり琴には心得があります」 「では訊くが、もし琴の弦があまりにも強く張られていた場合、琴はよい音色を奏でるものだろうか」 …
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の言葉は、存在するものが絶対に虚構ではないと言い切ることができなかったとしても、そのようにして何かを考えている自分だけは存在しているという主張だが、それはあくまでも脳が自分を認識しているという話だ。 物体と…
忌中と喪中の違いは、期間の違いなんかじゃなく、まったく意味が異なっている。忌中が身を慎む公のルールに等しいのに対し、喪中はあくまでも自分の心の状態を意味している。大切な人を失って悲しいという気持ちが「喪」であり、したがってその悲しい気持ち…
ブッダが教えてくれたこと ~四聖諦と八正道~ 仏教とは「仏の教え」のことです。「仏」というのは紀元前5~6世紀のインドに実在したゴータマ・ブッダ、いわゆるお釈迦さまのことを指していますので、「仏の教え」は「ブッダの教え」と理解することができま…
医者は患者の病に応じて処方する薬を変える。 それが応病与薬。 痛みを抑えるために痛み止めを処方するように、症状に合わせて薬は処方される。 ただし仏教でいうところの応病与薬とは、実際の薬剤のことを指しているのではなく、言葉それ自体を薬に見立てた…
なぜ馬鹿と書いてバカを意味するのか。「馬」と「鹿」を合わせて馬鹿(バカ)となるから、バカとは馬を鹿と間違えるような者のことだと思われることもあるが、じつは馬鹿の語源は意外にもはっきりしていない。 馬鹿という言葉の語源にはいくつかの説があるが…
そんな正念場という言葉は、もちろん「物事の最も重要な局面」を意味する言葉である。 そしてこの正念という言葉は、じつは仏教用語なのでもある。 仏教用語としての正念あるいは性根が歌舞伎のセリフとして使用され、そこから正念場や性根場という言葉が生…
五蘊 ご うん(五陰 ご おんともいう)という仏教用語は経典のなかでたびたび目にする言葉であり、仏教が考える人間の構成要素の基本となっています。 しかしながら、人間の物質的な部分と精神的な部分を計5つに細分化した五蘊という考え方は、その細かな名…
六根(眼耳鼻舌身意)と六境(色声香味触法)と六識の意味 仏教書を読むなどして仏教について学んでいると、けっこうな頻度で専門的な仏教用語と出くわす。 ある程度読み慣れて仏教知識が身についていけば、いちいち辞典等で意味を調べなくても読み進めてい…
東日本大震災から今年で7年。 あの災禍がもたらされてから、メディアでよく見聞きするようになった言葉がある。 未曾有(みぞう)。 訓読みすると、未だ曾て有らず。 「これまでに存在しえなかった」という意味を持つこの未曾有という言葉は、じつはもともと…
立ち止まって話をするほどでもないのだけれど、素通りしたのでは失礼にあたる。 そんなときは笑顔で少しだけ頭を下げて軽くおじぎをするのがベター。 つまりが、会釈(えしゃく)である。 じつはこの会釈という言葉、もとは仏教用語なのをご存じだろうか。 …
世知辛いという言葉の現在の用法を一言で説明すれば、これはおよそ「世渡りがしにくい」というほどの意味として使われている。 あるいはもっと単純に、「勘定高い」「ケチ」「せこい」という意味としても使われる。 ただ、なぜそのような意味になるのかは意…
仏教でいう分別とは、対象を識別していく頭の働きをいう。 善悪をわきまえるということであれば、この行動は善、あの行動は悪、というように、頭で判断して識別するのが分別。 これは一般的に使用される分別という言葉と概ね同じ用法・意味である。 しかし、…
なぜ「退く」「屈する」という2つの漢字を組み合わせた「退屈」という熟語で、暇な様子が表現されるのか、少々不思議に思われはしないだろうか。 退くも、屈するも、退屈という意味とは少し違うような漢字に思えるし、どちらも「挫折」に近いニュアンスの言…
お彼岸というのは仏教行事と考えられているが、もともと仏教に彼岸という行事はなかった。 インドにも中国にも彼岸という仏事は存在せず、意外にもこれは日本独自の行事なのである。 しかも日本における彼岸の歴史は古く、『日本後紀』には崇道天皇の供養の…
天上天下唯我独尊という言葉は、一般的には「この世界で自分が一番だ」というようなニュアンスの言葉として使われることが多い。 自分こそがもっとも偉く、そうした傲慢な在りようを重々しくした表現した言葉であると思われがちだが、実際の意味はそうではな…
「行間を読むのが小説の醍醐味」 「ジェットコースターの醍醐味は出発直後の急降下」 などと使われる醍醐味(だいごみ)という言葉は、「物事の一番の面白味」「奥深い味わい」「神髄」といった意味を持つ言葉である。 この醍醐味という言葉が仏教から生まれ…
億劫のもともとの読みは「おくこう(ごう)」だった。 億というのは一十百千万億の「億」で、とても多い数字であることの意味。 劫というのは億よりもさらに大きな数で、極めて長い時間を意味する言葉である。 なぜこれらのように長い(多い)時間(数字)を…
普通「ちえ」と聞くと、大抵はこちらの漢字の「知恵」を思い浮かべるのではないだろか。けれども仏教では「智慧」と書く。 簡単に書くか難しく書くかの違いと思われがちな差異だが、仏教では両者をまったくの別物として考えている。漢字が異なるのは意味に違…
亡き人の冥福を祈って行われる行為は、総じて供養と呼ばれる。 仏壇にご飯や水を供えたり、墓前に花を飾ったり、読経をしたり。そういったものをすべて供養と考えて、亡き人が少しでも喜ばれるように、安らかになるように、そう願って人は供養を施す。 供養…
ぜんざいは漢字で善哉と書く。「善き哉」と書いてなぜあの甘いぜんざいを指すのかというと、これには深いわけがある。 今から2500年以上昔、ブッダが在世であったころの話。ブッダは弟子たちに説法をする中で、時折り質問をしてみたりもした。 そしてその問…
現在使われている「皮肉」という言葉には、主に2つの意味がある。 1つは、人を意地悪く遠回しに非難すること。 もう1つは、思ったとおりにならないことを嘆く様子。 「親のコネで就職できてよかったね」 というセリフが前者で、 「頑張ったのに就活が徒労…
仏教用語である方便という言葉は、相手を正しい方向へと進ませるための便法をいう。もっとも便法とは、その場しのぎの一時的な便宜上の手段という意味もあるが、ここでいう便法とはむろんそれではない。単純に、1つの方法というほどの意味。「便」の字を入…
仏教で所得といえば、これはもう仏道修行によって得た仏法に関する所見のことをいう。 どの程度仏法を理解しているか。 仏法というものをどのように考えているか。 そういった意味の言葉であるが、よりストレートに言ってしまえば、悟りを得たかどうかという…
娑婆という漢字を見ると、なんとなくお婆さんを連想してしまうのは私だけかもしれないが、漢字自体には何の意味もない。 それもそのはず、娑婆という言葉はサンスクリット語の「サハー」という言葉の音訳で、単純に「サハー」という発音に似た音のする漢字を…