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無縁墓は「縁の無くなった墓」とは限らない 

無縁墓

仏教における「無縁」の話


無縁」という単語をくっつけた言葉をたまに見聞きする。良い意味で使われているケースは、まずない。


パッと思いつくところでは、「無縁墓」「無縁社会」「無縁死」。どれも言葉の後ろにひっそりと静まりかえったような淵を感じる言葉で、否が応でも寂しさが漂う。これら「無縁」という言葉の意味を一言で表せば、「つながりが無い」となるだろうか。


墓の管理をする者とのつながりが絶えた「無縁墓」。他者とのつながりが希薄な「無縁社会」。看取られることも引き取られることもない、つながりが消失したなかでの「無縁死」(孤独死)。3つの言葉は、およそそのような意味合いなのではないかと思う。


世間一般で「縁」といえば、それはやはり何らかの「つながり」を意味する文脈の中で使われる言葉となっていることだろう。それが「無」いのであるから、「無縁」を「つながりが無い」を意味する言葉として用いることは当然のこととも言える。


しかし、「縁」も「無縁」も元々は仏教用語であり、元来の「無縁」という言葉の意味は「つながりがない」のとはちょっと違う。仏教で無縁と言ったときには2つの意味があるのだ。


1つは、「仏教との縁がない」こと。


そしてもう1つは、「無条件」の意である。


1つ目の「仏教との縁がない」は言葉そのままに受け取って問題ない。縁とは仏縁のことで、仏縁がないから仏教と無縁。


少々分かりにくいのは2つ目である。「無条件」を意味する無縁とはどういうことなのか。


そもそも仏教用語としての「縁」は条件要因を意味する言葉であり、これに「無」が付いて「無縁」となると、「条件を必要としない(無条件)」というニュアンスの言葉になる。無はおもに否定として使われる言葉だが、ここでは「縁がない」という単なる否定ではなく、「縁を必要としない」を意味しているのがポイント。


具体的な例を挙げると、たとえば仏教には「無縁慈(むえんじ)」という言葉がある。これは仏や菩薩が人々に対して抱く慈悲の想いことで、簡単に言えば「差別のない平等な慈悲」を意味している。「この人には慈悲の心で接するが、あの人には慈悲の心を向けない」といった条件や差別がなく、誰にでも慈悲の心で接する。これが「条件(縁)を必要としない」仏の慈悲「無縁慈」というわけである。


無縁墓を「縁の切れた墓」と受け取る世間一般的な解釈によるならば、無縁慈は「慈悲と縁がない」とでも受け取られることだろう。しかし実際はそうではない。仏教において「無縁○○」とある言葉は、「○○と縁が無い」のではなく「縁を必要としない○○」という意味で受け取ったほうが適切なのである。


人は、自分の子どものことを可愛いと思う。しかしもし、自分の子どもは可愛くて他人の子どもはそれほど可愛くないというのであれば、それは条件付きの愛の可能性がある。「自分」の子どもであるから可愛くて、「自分」の子どもでなければ可愛くない。もしも両者を分かつ条件が「自分」であった場合、本当に可愛いのは、子どもではなく「自分」かもしれない。


そうした条件がないのが仏である。仏の慈悲は完全に平等。その完全平等な慈悲のことを無縁慈と言う。だからここで言う「縁」は「条件」の意であり、無縁とは「条件を必要としない」という意味なのである。「我が子」だから可愛いというような条件を必要としないから、どの子どもも平等に可愛いがることができる。それが無縁慈。


こうした「縁(条件)を必要としない」ことが無縁なのだと理解して改めて物事を考えた場合、無縁墓という言葉の意味もにわかに意味合いが変わってくる。


無縁墓と言ったとき、それは一般的に「墓地を管理してくれる関係者がいなくなった墓」の意味で使われている。しかし前述のように「縁を必要としない」が無縁という考えに依ってみれば、解釈が少々違ってくる。無縁墓は「特定の関係者(条件)を必要としない墓」という意味にも読めるのである。


というのも、私が暮らしている寺院の裏山には墓地があり、その一番奥に無縁墓と呼ばれる一画がある。その区画は墓の管理をする人がいなくなった墓石等が集められた場所になっており、いわゆる「縁が切れてしまった」墓石の集合地と解釈されている。


それは間違いではない。しかし特定の誰かとの縁(条件)が切れたことによって、そこにある無縁墓は特定の誰かとの縁にのみ関わるものではなくなり、「誰々の墓」という条件を必要としなくなった。条件がなくなったということは、逆から見ればすべてのものと縁を結べるようになった、とも言える。だから現在は私が墓参している。


無縁墓は無条件な墓石の集まりなだけあって、形状も色も年代もバラバラ。そんな多様な石がギュッと身を寄せ合って集まって、1つのコロニーを形成している。この無縁墓の区画に入るのに条件は必要ない。どこの誰の墓石であろうと、条件がなくなったならいつでも入ることができる。強いて言えばそれが唯一の条件か。それが「条件を必要としない」無縁墓。


「無縁」を、「縁が切れた」と見るか、それとも「条件を必要としなくなった」と見るか。それによって、うちの裏山の無縁墓を見る目も180度変わってくることだろう。「縁が切れた」と見れば、無縁墓の区画は寂しく悲しい墓所に見え、「条件を必要としなくなった」と見る人には、多様な墓が集まる密なパーティ会場のように見えるかもしれない。


繰り返すが仏教において無縁とは、必ずしも縁がないことを意味していない。特定の縁によってのみつながるのではなく、条件を必要としない無条件の領域こそが無縁の本領なのである。


じゃあ無縁社会も無縁死も同じように解釈すればいいのか、と思う方もいるかもしれない。残念ながらこれらの言葉を無縁墓と同じように仏教的に解釈するのは強引であり適切とは思えない。


しかしながら、これらの造語に無縁という仏教用語が用いられている点には違和感があり、言葉選びが適切ではないと感じる。無縁社会も無縁死も、他者との関わりが断たれている状態を示したい言葉であることは明白。つまりここで言う無縁は「孤立」とほぼ同じ意味なのだろう。


「こりつむえん」という四字熟語は「孤立無援」と書くのであって「無縁」ではないのだし、「孤立」を表現したいなら「無援」の文字をあてたほうがいいのではないか。「孤立している方に援助が届いていない社会」「孤立して援助が届かない中での死」。少なくとも、無縁という言葉は元来「孤立」を意味する言葉ではないのだから。


さらに、「無縁死」と表記した場合「孤立の状態で亡くなった」と現状をそのまま容認する言葉のように感じられるが、はたしてそれが適切なのだろうか。正確には「無援死」であり、「援助が届かなかったから孤立して亡くなった」のではないだろうか。


現代における独居老人や孤立の問題は、「自然とそういう状態になってしまっている」のではなく、「援助が届いていないから孤立している」という認識を持つためにも、「無援社会」「無援死」のほうが適切のように思える。


無縁は孤立ではない。孤立は無援によるものである。