「弾琴のたとえ」 ~仏弟子ソーナと中道の教え~
私たちは相手に何かを伝えようとするとき、より理解してもらえるようにわかりやすく伝えることに注意をはらう。
言葉選びから、参考になる資料、表情にいたるまで、様々な工夫をこらす。
それは現代に限った話でなく、紀元前5、6世紀を生きたブッダもまた同じだった。
仏法をわかりやすく伝えるために、ブッダはある手法を頻繁に用いたのである。
その手法とは「比喩」。
仏典に登場する比喩は多岐に及ぶ。
毒矢で喩えたり、河を流れる丸太で喩えたり、砂遊びで喩えたり、とにかく話をわかりやすく伝えるためにブッダは種々の比喩でもって仏法を説いた。
なかにはちょっと首を傾げざるをえないような、たとえば子どもを食べるとかいうとんでもない比喩も混ざってはいるが、全体的にみればブッダの比喩は趣旨が明確で、かつ、巧みであるといえる。
そのなかでも特に秀逸だと思うのが、ソーナという弟子に対して修行の在り方を喩えて伝えた「弾琴のたとえ」。
人口に膾炙する非常に有名な話ではあるが、有名になるだけあって、やはりこの例えは巧い。
「弾琴のたとえ」
ソーナは仏弟子の1人であり、厳しい修行に猛邁進する若き人物であった。
しかし、張り切る気持ちとは裏腹に、いつまでたっても悟りを開くことができないでいた。
そこでソーナはあるとき、ブッダにこんな相談をするのである。
「私は修行僧たちのなかでも、特に頑張って修行をしていると思っています。
しかし、いつまでたっても悟りを開くことができません。
私の実家にはそれなりの資産があり、その資産を受け取って生活をしたなら、それなりに裕福な暮らしを送ることができるでしょう。
そうであるなら、私は悟ることのできない今の修行生活に見切りをつけ、世俗に戻り、資産を受け取って世俗のなかで裕福に暮らしたほうがいいのではないかと思うのです」
ソーナは弱気になっていたのである。
そんなソーナの告白を受け、ブッダは次のように言葉をなげかける。
「ソーナ、あなたは出家する以前、琴を弾くことが巧みだったという話を聞いたことがあるが、そうだったろうか?」
「はい、多少なり琴には心得があります」
「では訊くが、もし琴の弦があまりにも強く張られていた場合、琴はよい音色を奏でるものだろうか」
「いえ、強く張りすぎてはよい音はでません」
「では、琴の弦があまりに緩く張られたならば、それはよい音色を奏でるだろうか」
「いえ、弱すぎてもよい音はでません」
「そうか。では、強くもなく、緩くもなく、ほどよく張られた弦だったなら、その琴はよい音色を奏でるだろうか」
「そのとおりでございます」
「ソーナよ、修行もまたそれと同じなのである。
精進を重ねることは大切だが、あまりにも苛烈な修行に身を置いてしまうと、心が高ぶってしまい静まることがない。
また、修行をゆるやかなものにしてしまえば、怠惰の心が湧いてきて修行にならない。
だからよいだろうか、ソーナ。
あなたはこれから平らな精進に身を置きなさい。身と心を平穏に保つことを目標にして精進をしてみなさい」
「ブッダよ、わかりました」
中道
これが世に有名な「弾琴のたとえ」である。
ブッダは、あまりにも厳しい修行に身を置くソーナに対して、厳しいことが必ずしもよいことなのではないことを伝えた。ソーナにとってそれは、目から鱗が落ちるような示唆に聞こえたかもしれない。
もしソーナが修行とは厳しいものだと思い込んでいれば、それ以外の発想など起こりえるわけがないからである。思い込みというのは視野を極端に狭くさせ、異なる発想をする機会を根こそぎ奪う。
それだけに思い込みを崩すのは大変な作業でもある。
正攻法で正面から理詰めで切り崩そうとしても、その理論が正しければ正しいほど、相手は意地になってそれを否定するということもある。相手にしてみれば、自分のすべてを否定されるような感覚に陥ることがあるからだろう。
あるいは、「厳しいだけが修行でない」という事実だけを伝えても、もしかしたらソーナは深く理解をしないかもしれない。
腑に落ちるような納得を得られないからである。
そこでブッダは、ソーナが話を受け入れられるよう、深く納得することができるよう、ソーナの身近なものを例に挙げて、たとえ話でもって正しい修行の在り方を伝えた。
それが「弾琴のたとえ」である。
極端を離れて中道を歩むというのは、起伏を離れて平穏を歩むということでもある。
たいてい人は「下」を否定し「上」を肯定する傾向にあるが、ブッダは「上」もまた否定した。
心の揺れ動きは、たとえそれが喜ばしいというようなプラスに思える種類のものであっても、心を揺れ動かすということにおいては「苦」と同等。
ブッダが肯定したのは、「上」でも「下」でもなく、「平」なのである。
ちなみに、ソーナはその後、平穏なる修行によってついに悟りを開くことができたという。
ブッダの一言がなければ、ソーナは還俗して生涯を「上」を目指す生き方に費やし、心に平穏を感じることなく生き続けていたかもしれない。