合掌の意味と、その心
私たち日本人は日常的に合掌を用いています。
食事の前後、挨拶の場面、お墓参りをしたとき、などなど。
何気ない行為ですが、僧侶以外の人物が合掌をするのは、アジアのなかでも一部の国に限られるんだとか……。
日本人にとってはあまりにも身近な「合掌」という行為。
身近すぎるゆえに、あらためて「合掌って何なんだろう」と考えることはなかなかないかもしれませんが、いざ探求してみるとこれが意外にも奥の深い行為なのです。
そこで、知られざる合掌の世界についてご紹介したいと思います。
合掌の起源
合掌というと仏教の教えのように思われがちですが、起源は仏教誕生よりもずっと前。
一説によれば、紀元前4000~5000年頃にはもう合掌は存在していたとか。
仏教が誕生したのが紀元前5~6世紀の話なので、比較にならないくらい古いことになります。
それで、そんなに昔から存在する合掌という言葉の語源は、サンスクリット語のアンジャリ( अञ्जलि )という言葉で、意味は「捧げる」といったものでした。
それが仏教にも取り入れられ、後に漢字に訳された際に「合掌」になったというわけです。
いわれてみれば、確かに何か祈りを「捧げて」いるような姿に見えますよね。合掌って。
合掌の語源はサンスクリット語の「アンジャリ」、意味は「捧げる」
仏教における合掌
時代を経ていくうちに、合掌にはいろいろな意味が付与されていきました。
尊敬の念を捧げる、感謝の念を捧げる、といったように、主に相手を敬う行為として合掌という作法が行われるようになります。
また仏教においては、仏を拝むといった意味合いで、合掌が行われるようにもなっていきます。
「礼」の意味合いです。
インドでは「ナマステー」という言葉とともに合掌が行われますが、「ナマス」は「敬意」を意味し、「テー」は「あなた」を意味します。
つまり、あなたを尊敬しているということ。
敬愛なる挨拶というわけです。
敬意を「捧げる」ということですので、やはり合掌はアンジャリですね。
南無とナマス
これがもう少し仏教的になると、「南無」と音訳されて尊崇の意味で使われます。
この場合は深い信仰を意味し、帰依といった意味にもなります。
「仏を篤く敬っている」「仏の教えを心の依りどころとしている」、といった意味合いとでも言えばいいでしょうか。
合掌の根底にあるのは「敬」の心
印相としての合掌
「印を結ぶ」という言葉があります。忍者が忍術を繰り出すときに手でいろいろな形を組む、あの動作のことです。
仏像などでもよく、仏や菩薩が印を結んだ姿で彫刻されていますね。
仏教には印というものがたくさんあって、たとえば坐禅をする時には法界定印(ほっかいじょういん)という印を結んで行います。
それと同じように、合掌もこの印の一つなのです。
アンジャリ・ムドラー
ヨガの世界ではよく「アンジャリ・ムドラー」という作法が行われます。
これはヨガの始めや終わりに、合掌をして挨拶をするということ。
アンジャリとは上記のとおり、合掌のもとになった言葉「捧げる」の意で、ムドラーは「印」の意味。
つまりヨガでは合掌を「アンジャリの印を結ぶ」という言葉で呼んでいるというわけです。
両の掌を合わせるという印を結び、敬意を捧げる。
これが合掌の基本であるということが、ヨガの作法からもわかります。
合掌という印を結んでいる
右手と左手の意味
合掌をする両の手にはそれぞれに別の意味があると考えられています。
インドでは右手を清浄、左手を不浄とみなし、日常生活のなかでも使い分ける文化が存在しています。
なので左右の手でそれぞれに別の意味があるというのは、自然な発想かもしれません。
清浄である右手は「仏」の象徴、不浄である左手は「衆生」の象徴。
仏教ではそのように考えられています。
ほかにも、右手を「悟り」「真理」といったもとの考え、左手を「迷い」「煩悩」といったふうに考えることもあります。
いずれにしろ、右手が清浄、左手が不浄であるという思想に基づいています。
そして、こうした対極に位置する2つを合わせるのが合掌の意味であり、したがって合掌には仏と自分とが一つになるという意味が含まれています。
右手と左手を合わせることで、仏と衆生が合体し、自らが仏になるという発想です。
右手が仏、左手が衆生(自分)
堅実心合掌と金剛合掌
合掌の印相(手の形)といえば通常、指を閉じて両手をピタリと合わせる印相を想像することでしょう。
しかし密教では合掌にも12の印相があると考えられています。これを十二合掌(じゅうにがっしょう)といいます。
そのなかでも特に有名なのが、堅実心合掌(けんじつしんがっしょう)と金剛合掌(こんごうがっしょう)。
堅実心合掌
堅実心合掌は、いわゆる普通の合掌です。
5本の指を全部くっつけて、掌をぴたりと合わせます。
堅実心合掌は、その名のとおり、堅実な心による合掌。
真心を表現したような合掌であり、日常的に用いられることの多い合掌です。
金剛合掌
一方、金剛合掌は、両の掌を合わせるところまでは一緒ですが、そのあとに五指を少し開き、左右の指が互い違いに組み合うように、左右の手を1つに合体させます。
このとき、必ず右手の指が左手の指の上にくるように組みます。
この金剛合掌は主に密教宗派のなかで行われるものですが、他宗派においても行われることはあります。
金剛というのはダイヤモンドのことで、もっとも硬いものの象徴。
つまり、仏を象徴する右手と衆生を象徴する左手を単に合わせるだけでなく、組み合わせて合一させ、完全に一体となった堅固な様子を表現しているというわけです。
したがってこの金剛合掌は通常の挨拶ではなく、仏を拝むといった場合に相応しい合掌(印相)であるといえるでしょう。
ちなみに、金剛合掌には凄まじい力が宿っていると考えられていますので、パワースポットが大好きな方はぜひ金剛合掌でお参りしてみてください。
合掌の位置
合掌の作法を伝える際に、曹洞宗では「合掌をした指先が目線の高さになるように」と伝えることが多いです。
けっこう高めの位置ですね。
一方、宗派によっては「胸の位置で合掌をする」と伝える場合もあり、一体どちらが正しいのかと疑問に思われるかもしれません。
結論からいえば、別に正解があるわけではありません。
ただし、合掌の位置によって合掌の意味が少し異なるという話はあります。
まず、胸の前で手を合わせる合掌ですが、これは目の前の相手に対して敬意を示す合掌。
したがって日常的に使う合掌、たとえば挨拶のときなどは、胸の前での合掌でいいということになります。
一方、顔の前で合わせる合掌は、はっきりとした対象というものを想定せず、あらゆるものに対して敬意を示す合掌を意味する場合があります。
あらゆるものですから、人間に限らず、動物や植物、無機物から宇宙にいたるまで、一切のものに敬意を表します。
それは言ってみれば、自と他を区別することをやめて、自他の境目を取り払った合掌ともいえるでしょう。
ヨガでは梵我一如(ぼんがいちにょ)といって、宇宙と自分とが合わさり一つになるような思想を持っていますが、顔の前で組む合掌は、ヨガにおける梵我一如を表現した合掌であるともいえます。
また、先ほどの金剛合掌も合一の意味合いが強い合掌であり、これも2つを1つに合わせるという特徴を持った印相でした。
こうした合掌を行う場合、それは目の前の相手に対する合掌というよりも、仏や真理といったものに対する合掌であるという意味合いが濃くなりますので、顔の前で合わせるほうが理にかなっているといえます。
厳密に区別する必要はないかもしれませんが、合掌にはそのような意味があるということも、知っておいて損はないでしょう。
胸の前の合掌は目の前の相手、顔の前の合掌はあらゆる仏
何に対する合掌か
合掌とは、何に対する合掌なのでしょうか。ここについても考えてみたいと思います。
たとえば、食事の際の合掌には、食事への感謝の想いが込められていることと思います。
食べ物それ自体への感謝、あるいは作り手や、農業などに関わる方々への感謝。
しかし、作物が育つには太陽や水や土や温度といった要素も欠かせません。
すると、そういった自然への感謝の合掌でもあると言えるでしょう。
自然への感謝となると、これは最終的には宇宙への感謝、世界が存在することの不思議・奇跡への感謝といったことになり、すべてがつながり合っていることから、すべてへの感謝ということになっていきます。
畢竟、感謝しかないとすら言えます。
そして、そのすべてのなかには、当然自分も含まれています。
自分もまた世界を構成する自然の一部。
つまり、合掌は自分に対するものでもあるのです。
自分を含めた、あらゆるものに対する敬意を表した姿。それが合掌。
あらゆるものがつながり合っているというのは、じつに不思議な感覚です。
こういった事柄を、仏教では昔から「仏」と表現してきました。
言葉ではうまく表現することのできない、普遍的な真理のようなものを仏と呼んできたのです。
そう考えると、合掌はこの「仏」に対するものであると言うことができるわけですが、さらに深く考えれば、その仏が何を意味するのか、探求は尽きません。
私が仏に合掌をするのか
私と仏が合掌をするのか
仏が仏に合掌をするのか
合掌が合掌を合掌するのか
仏が仏に仏するのか
合一ということを突き詰めていきますと、なんとも奥深いところに行き着きます。
そしてそれこそが、合掌の意味でもあるのです。
合掌を突き詰めていくと、「仏とは何か」に行き着く
右仏 左衆生と拝む手の 中ぞゆかしき 南無の一声
最後に合掌にまつわる一句をご紹介したいと思います。
「右仏 左衆生と 拝む手の 中ぞゆかしき 南無の一声」
合掌の意味を知った上でこの一句を読むと、なんとも味わいがありますね。