禅語エッセイ
【禅語】直心是道場 直心是道場(じきしんこれどうじょう)という禅語を目にすると、なんとなく思いだしてしまうのが、ノートルダム清心学園理事長を務めておられた故・渡辺和子さんの著書『置かれた場所で咲きなさい』。この「置かれた場所で咲く」という言…
「学ぶ」という言葉の語源は「真似ぶ」だという。考えてもみれば、私たちが生まれてきてからこのかた学んできた事柄というのは、その多くが先人の知恵の習得、つまりは先人の真似である。 食事、遊び、技術、文化。日常生活のあらゆる事柄を想像してみて、そ…
四聖句というのは、禅をインドから中国に伝えた達磨大師(だるまだいし)が残したと伝えられている言葉なんですが、禅の特徴を端的に示した名句ということで、ただの四句ではなく四聖句と呼ばれています。 四聖句以前に「そもそも禅がわからない」という方も…
愚の如く魯の如し ~愚直という偉大な生き方~ 「偉大な大工は、誰も見ないからといって、キャビネットの裏側にひどい木材を使ったりはしない」 これ、スティーブ・ジョブズの言葉なんですってね。誰からも見られないところや目立たないところだから、手を抜…
永平寺への入門 私が永平寺で修行をしたのは、もう10年以上も前のこと。曹洞宗には本山が2つあって、福井県の永平寺と横浜にある總持寺なんですけど、どちらも本山なんですね。我々は「両本山りょうほんざん」って呼んでます。ちなみに言っておきますけど、…
菩提心と自己犠牲とアンパンマン アンパンマンという国民的なアニメを、もちろん皆さんご存じのことと思う。 私も子どもの頃によく見たことを覚えている。 大人になってからはさすがに久しく見ていなかったが、子どもが生まれてからは何度も一緒に見た。 映…
「我逢人」の「人」とは「本物」のこと。 そんなふうに感じることのできる相手との出逢いを指して、我逢人という。 人との出逢いから私たちは多くのことを学ぶ。 自分一人だけではどうしても限界があり、固定観念という枠を超えることも難しい。 出逢いは、…
いつも衣の懐に手毬やおはじきを入れて、子どもらと無邪気に遊んでいたという良寛和尚。 「散る桜 残る桜も 散る桜」という禅語は、そんな良寛の辞世の句である。 今まさに命が燃え尽きようとしている時、たとえ命が長らえたところで、それもまた散りゆく命…
無功徳という禅語は、禅宗の初祖とも称される菩提達磨(ぼだい・だるま)の言葉である。 南インドの香至国(こうしこく)という国の第3王子として生まれた達磨は、やがて出家をして僧となった。そして後年、仏法を説き広めるためにインドを発って中国へと向…
日々是好日という言葉をどう解釈するかは各人の自由であるが、少なくとも「好日」という言葉を「良い」「悪い」という意味での「よい」と受け取ることだけはやめたほうがいい。 相対的な物の見方は禅のもっとも戒めるところだからである。 これは良くて、あ…
色即是空という言葉は、「あらゆるものは空である」といった意味の言葉であり、つまりが般若心経の中核を突く言葉であるといえる。 色即是空を説きたいがために般若心経が存在している、と言ってしまってはやや大袈裟かもしれないが、筋としてはそのようなも…
誰かを好きになったり誰かに恋をしたりすることと、誰かを愛することは、似ているようでまったく違うこと。 人を好きになると、相手も自分のことを好きでいてくれることを望むようになるだろう。 「恋が叶う」とは、まさにその望みが叶った状態をいった言葉…
「啐(そつ)」とは、卵の中の雛が「もうすぐ生まれるよ」と内側から殻をつつく音。 「啄(たく)」とは、そんな卵の変化に気づいた親鳥が、「ここから出てきなさい」と外側から殻をつつく音。 殻を破る者と、それを導く者。そんな両者の「啐」と「啄」が同…
禅語「冷暖自知」は、私が大好きな禅語の1つである。 この禅語は自分で体験することの重要性を説いている。 たとえば、友達がイタリアンのお店に行って 「あそこのピザがすごく美味しかったよ」 と教えてくれたとする。 すると私は、 「あのイタリアンの店の…
縁起とは「縁(よ)りて起こる」という意味で、禅語というよりも仏教語といったほうが正しいかもしれない。が、とりあえずここでは広義の禅語としておく。 この縁起という言葉にはいくつかの異なった意味がある。 まず、世間一般では「縁起を担ぐ」「縁起で…
禅の考える幸せは、いたってシンプル。 キッチンから大さじを持ってきて、コップから水を一杯すくいとる。きっかり15cc。大さじ一杯の水を得て充足とする。 水を増やすのではなく、器を大さじという小さなものに変えるのである。 2/1の状態を2/2にするのでは…
前回、法灯明という禅語について綴った。 ブッダが亡くなる前に弟子たちに残した最期の言葉である。 真理、つまり本当に正しいことを頼りにして生きていきなさいという意味の禅語であった。 その法灯明という禅語とともに、ブッダはもう1つの禅語を弟子たち…
「ソーナ、あなたは出家する以前、琴を弾くことが巧みだったという話を聞いたことがあるが、そうだったろうか?」 「はい、多少なり琴には心得があります」 「では訊くが、もし琴の弦があまりにも強く張られていた場合、琴はよい音色を奏でるものだろうか」 …
拈華微笑(ねんげみしょう)とは、仏教を説いたブッダと、その弟子の1人である摩訶迦葉との間で交わされたとされる逸話を示す言葉のこと。 具体的には、次のような話を指す言葉である。 ある時、ブッダは大勢の弟子たちとともに霊鷲山にいた。弟子たちを前に…
但だ般若を尊重す 口では調子のいいことを言って、実際の行動は全然なってない。自分のことは棚の最上段に上げて、綺麗事ばかり口にする。 そのような「口だけ」と批判されるような人がいれば、仮にその人が話す言葉がどれだけ道理に適った素晴らしいもので…
比叡山で抱いた道元禅師の問い。 「本来本法性 天然自性身」 それに対する答え。 「眼は横に並び鼻は縦に顔に付いていること」 「太陽は朝に東から昇り、夜に西に沈んでいくということ」 「眼横鼻直」という禅語が示すのは、この心なのである。
お茶をいただいたならそのお茶を飲み、ご飯をいただいたならそのご飯を食べる。 「茶さに逢おうては茶さを喫きっし、飯はんに逢おうては飯はんを喫きっす」という禅語は、だいたいそのような意味の言葉である。 特に変哲のない、何を言おうとしているのかも…
麻三斤(まさんぎん)という禅語がある。 後梁から宋にかけての時代(約10世紀:中国)を生きた洞山守初(とうざんしゅしょ)禅師の言葉である。 禅の公案集(悟りの機縁を集録した書物)である『碧巌録』に、この麻三斤という禅語が生まれたきっかけとなる…
『糧になる禅語』は、禅語を題材にしたフォトエッセイです。 禅語というものが真実の一端を端的に示す言葉であるとしたら、ただ言葉を綴るだけでなく、視覚的に直接訴えかけるものがあったほうが禅語の世界感をイメージしやすいと思い、見開き全面にフォト(…
大衆一如であることの意義は、修行僧という存在に成りきることにあるように思う。 「自分」ではなく、「修行僧」に成るという意味だ。 「こうしたい」「あれはしたくない」といった自我を放り捨てて、ただ定められた修行を一心に行う。 水がただひたすら高い…
赤々と燃えるストーブの上に、ふわりと雪が舞い落ちてきた。 けれどもストーブに触れた瞬間、雪は溶けて水になり、瞬く間に蒸発して消えてしまう。 炎を前にして、雪は為す術もなく消えさっていく。 炎は雪の存在に気付くことすらなく、自分が燃えることだけ…
目が見えない盲目の人間が数名集められ、その人たち全員に象を触ってもらった。 当人たちは目が見えないので、当然のことながら象という動物を見たことはない。 そこで、触った感触から象という動物がどのようなものか、感想を述べてもらった。 人々はそれぞ…
地震や台風、大雪や噴火。 個人の力などでは到底太刀打ちすることのできない圧倒的強大な自然の力の前に、人は何ができるのか。 どれだけ頭をひねって予防に努めても、自然災害を完全に防ぐことなどできないという不可避性に、災害の恐ろしさを思わずにはい…
法食同輪という禅語は、法と食、つまり坐禅や読経といった行い(法)と食事を作ったりいただいたりすることに、優劣や上下などないということを言っている。 なんとなく私たちは、「仏道修行」というと坐禅などを思い浮かべ、「食事の仕度」というと裏方仕事…
「露」というのは「あらわれる」の意で、したがってこの禅語は「真理ははっきり堂々と目の前にあらわれている」といった意味の言葉である。 草は草としての本分をまっとうしてそこに存在している。 花は花としての本分をまっとうしてそこに存在している。 草…