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【禅語】麻三斤 ~仏とは何なのか~

麻三斤,禅語

【禅語】麻三斤

麻三斤(まさんぎん)という禅語がある。
後梁から宋にかけての時代(約10世紀:中国)を生きた洞山守初(とうざんしゅしょ)禅師の言葉である。


禅の公案集(悟りの機縁を集録した書物)である『碧巌録』に、この麻三斤という禅語が生まれたきっかけとなるエピソードが綴られているので、まずはそのエピソードを読んでみたい。
麻三斤と言われても、おそらくまったく馴染みのない言葉だと思うので。


『碧巌録』にみる麻三斤

ある時、1人の僧が守初禅師に質問をした。
仏とは何でしょうか


守初禅師は答えた。
三斤の麻


以上。おしまい。これだけ。
……エピソード、短っ!

三斤の麻とは

斤というのは重さの単位で、三斤あれば僧侶の衣を一着仕立てることができるという。
守初禅師の暮らしていた湖北省の襄州地方は麻の産地として有名だったというから、守初禅師にとっても麻はとても身近なものであったと思われる。


この麻三斤という答えを日常的な言葉で訳せば、ざっくりと「糸の束」とでもなるだろうか。
現代で言うならミシン糸でもいいし、綿の糸でもいいし、とにかくどの家にもあたりまえに置いてあるようなものというニュアンス。


で、問題は、それが一体何を意味しているのか。


古来、禅の問答においてもっともポピュラーな問いは「仏とは何か」であるが、その問いに対する答えはじつに多種多様。


「日々是好日」
「東門西門南門北門」
「無」
「足の裏」
「山は青い」
……などなど。


言葉を挙げればきりがなく、手の指を一本立てて答えとする禅僧もいた。
それぞれの祖師方が自由闊達に悟りの心から答えを返すものだから、まぁ本当にわけのわからない、まさに禅問答の様相となるわけである。


そのようななかで、守初禅師の答えは「三斤の麻」だった。
「三斤の麻」と答えたのだが、しかし「三斤の麻」が重要なのではおそらくない
では一体、「三斤の麻」というこの回答にはどのような意味があるのか。

永平寺大講堂の麻三斤

じつはこの麻三斤という禅語には、個人的に苦い思い出がある。
永平寺で修行をしていたとき、参拝者からこの「麻三斤」という禅語の意味を訊ねられたことがあるのだ。


永平寺の吉祥閣の2階には大講堂と呼ばれる大広間があり、そこに「麻三斤」と大書された額がかかっている。
そしてその大講堂で作業をしていた時、参拝者の方から質問を受けた。
あの額には何と書いてあるのですか?
と。


「麻三斤と書いてあります」
漢字の読みだけは知っていたのでなんとか答えられたが、お願いだからそれ以上は訊かないで、と心のなかで祈っていた。


しかしながら残念なことに、怖れていた質問が続けざまに飛んできた。
どのような意味なのですか?


うぐぐ、やはりその質問が来てしまったか。
「ええとですね……」
すぐには言葉が出ず、ない知識を振り絞って苦し紛れにこう答えた。


「麻が三斤あれば僧侶の衣が一着作れると言います。つまり、仏とは僧衣をまとっている自分自身であることに気付いていなさい、という意味の言葉なのだと思います」


「へぇ」


明らかに納得はしていないというふうな相槌を打って、その方は大講堂を後にした。
そりゃそうだろうな。
私だって今しがた話した自分の答えに何の納得もできていないのだから。
無性に虚しくなった。


正直に「その意味を知るために修行をしています」と答えればよかったと今なら思うのだが、そのときは永平寺で修行をしているのだから何か答えなければいけないとバカなプライドがのさばった。
そのバカさを捨てるために永平寺で修行をしていたはずなのに、何も成長できていなかった。


仏とは何か

仏とは何かと問われて、「三斤の麻」と答えた守初禅師。
しかし三斤の麻が仏なのではない。
強いて言うなら、三斤の麻を仏と捉える守初禅師の心こそ仏と言うべきだろう


修行をして悟りやら仏を目指すといっても、悟りやら仏やらに執着すればもうそれは立派な煩悩である。
概念としての悟りや仏に捉われるのは執着であり、その執着から離れれば木も石も水も雲もただありのままの存在に感じる。


石は石であり、石でない。
僧侶は僧侶であり、僧侶でない。
仏は仏であり、仏でない。


特別なものなど何もない。
あらゆるものは、ただそのもの


そうした心から世界を眺めれば、石と仏に差などない。
比べる心で見てしまえば石と仏は別物かもしれないが、比べなければあらゆる存在は「ただの存在」である
ただの存在だから尊いのである。


そうした「ありのまま」の姿を捉える心こそ、仏といえるのではないか。
言葉の字面と睨めっこするのではなく、言葉の奥を深読みするのでもなく、言葉を発した守初禅師の心を想う。

兄弟子に問う

ちなみに、守初禅師に問うた僧は「麻三斤」という答えの意味がわからず、今度は兄弟子のもとを訪れて次のようなやりとりをしている。


「麻三斤の意旨如何」
(三斤の麻と言われました。どういう意味なのでしょうか?)


「花蔟々、錦蔟々、会すや」
(辺りに咲き乱れる花、山に色付く紅葉、まあ、そういうことだろう。わかるか?)


「不会」
(ぜんぜんわかりません)


「南地の竹、北地の木」
(じゃあ、あっちには竹が生えている、こっちには木が生えている。これでわかったか?)


さて、僧は兄弟子の言葉を聞いて、何かわかっただろうか。

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