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【禅語】 日々是好日 ~「毎日がよい日」をどう受け取るか~

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【禅語】 日々是好日 (にちにちこれこうじつ)


直訳すれば、「毎日がよい日だ」とでもなるだろうか。
それが禅語、日々是好日
音の響きも文字の雰囲気も言葉の意味も良いイメージなものだから、掛軸などに揮毫される場合も多く、世間にもっともよく知られている禅語の1つである。


しかし毎日がよい日だなんて、そんな嬉しい話があるわけないじゃないかと、この禅語を疑問視する声もたまには聞く。
絵空事を言いふらすのはやめてくれ、人生そんなに甘いものじゃない、と。
生きることの辛さを知っている人は、人生を「よい」の一言でくくることなどとてもできないのだと思う。

悪い日も「好日」?


たしかに、日々是好日という禅語を懐疑的に受け取る人がいるのは無理もないことかもしれない。
生きていれば、うまくいかない日もあるし、喧嘩をする日もあるし、失敗して反省する日もあるし、ひたすら後悔する日もあるし、涙を流す日だってある。
そうした決して「よい日」とは呼べないような日もあるのが人生だろう。


しかし、それでもこの禅語を残した中国唐代の僧侶、雲門宗の開祖の雲門文偃(うんもん・ぶんえん)は、やっぱり「日々是好日」であるという。
山あり谷あり、往々にして浮き沈みがあるのが人生であることなどもちろんわかっている。
それでもやっぱり毎日は好日であるという。


では一体、雲門が言う日々是好日とは何なのか。
何をもって「好日」と言っているのか
ここのところを一つ肚に据えて生きてほしいというのが、日々是好日が揮毫される本当の理由なのかもしれない。


日々是好日の誕生エピソード


日々是好日という禅語が生まれた際のエピソードについて、公案集として名高い『碧巌録(へきがんろく)』には次のように記されている。

雲門、垂語して云く、十五日已前のことは汝に問はず、十五日已後、一句を道い将ち来たれ。自ら代って云く、日々是好日。


以上。


極めて短いが、これが『碧巌録』に記されている日々是好日のエピソードである。
十五日という数字に大きな意味はないから、原文の意味はおおよそ下のようになる。


あるとき雲門が修行僧たちに言った。
「これまでのことは訊かない。これから先のことを一句言ってみよ」
しかし誰も答える者がいなかったので、雲門自ら口を開いた。
「日々是好日」


これが『碧巌録』に記された日々是好日のエピソードということになる。
エピソードというか、もはや断片でしかないような気がするが……。


ちなみに、禅問答や公案や『碧巌録』を知らない方は、下にまとめた記事があるのでどうぞ。

「好日」の意味するところ


日々是好日という言葉をどう解釈するかは、結局のところは各人の自由なのだが、少なくとも「好日」という言葉を「良い」「悪い」という意味での「よい」と受け取ることだけはやめたほうがいい
相対的な物の見方は禅のもっとも戒めるところだからである。


これは良くて、あれは悪い。
そうした選り好みをする頭のはたらきを迷いと切り捨てるのが禅の根本といえる。


すると、「好日」とは何かと比べて「よい」のではなく、また自分好みの日が続くというわけでもないことになる。
比較することなく、また独善的でもない「好日」とは一体何なのか


1つ思うのは、たとえば余命幾日もないような状況での一日一日というのは、それがたとえどのような日であったとしても、愛おしむように感じられるものではないだろうか、ということ。
青空でも、曇り空でも、雨降りでも。その日をストレートに大切に受け止めることができるのではないかと思うのだ。


あるいはもっと些細な事柄、食事をする、外を散歩する、本を読む、洗い立ての服を着る、そういった日常の何気ない行為にすら、慈しみの心を生じさせるのではないだろうか。


雲門の言っている好日とは、もしかしたらこうした「かけがえのない日」というニュアンスに近いのかもしれない。
比べないからこそ、いや、比べることができないからこそ、尊く感じられる毎日。
比較した「よい」ではなく、それ自体の「尊さ」を言った言葉なのではないかと。

病む日々もまた「好日」


以前、癌に冒され余命を告げられ絶望しながらも、やがて命の尊さに気付いて残りわずかな人生を噛みしめるように生きた人がいた。
その人は最後には「癌に感謝している」とまで言った。


「もし癌という病を患わなければ、自分は命の尊さなどというものを実感することなく一生を終えていた気がする」


だから癌に感謝しているのだと。


そんなふうに、辛い日々があってもなお毎日を尊び「日々是好日」と思えたとき、はじめて雲門の意を受け取ることができるのかもしれない
生きることの辛さを味わい、日々是好日を懐疑的にしか捉えることのできない方々は、だからこそむしろこの禅語を理解できる立場にいると考えることだってできる。


間違っても、毎日毎日良いことが起きる、なんていうふうな理解だけはしないようにしたい禅語である。

いろいろな禅語


日々是好日以外にも、多種多様な禅語が禅の世界にはあります。
もっと禅語を知りたい方は下の禅語一覧の記事から気になる禅語を探してみてください。

書に聞く禅語


1つの禅語を書で表現し、3分で紹介する素敵な動画。
日々是好日を取り上げた回です。
気持ちが和みます。