禅の視点 - life -

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菩提心と自己犠牲とアンパンマン

菩薩

菩提心と自己犠牲とアンパンマン


アンパンマンという国民的なアニメを、もちろん皆さんご存じのことと思う。
私も子どもの頃によく見たことを覚えている。
大人になってからはさすがに久しく見ていなかったが、子どもが生まれてからは何度も一緒に見た。
映画のDVDを借りてきたことも一度や二度ではない。
特に映画シリーズ通算第18作目という『それいけ!アンパンマン いのちの星のドーリィ』は、アンパンマン史上最高傑作だと思っている。


アンパンマンは困っている人を助ける。
時間があれば空を飛んでパトロールをし、川で溺れている人がいれば救い出し、重い荷物を運んでいる人がいれば一緒に運び、そして空腹で元気をなくしている人がいれば、自分の顔をちぎって与える。
アンパンマンは控えめに言って菩薩、普通に考えて仏である。


あんパン(アンパンマンの顔)を食べて元気を取り戻す人がいる一方で、アンパンマン自身は顔が損なわれると力が弱まる。
自分の力の源である大切なもの(顔)を人に与えているため、自分の元気がなくなってしまうのだ。
だからアンパンマンは、顔が欠けた状態ではバイキンマンに勝つことができない。

「正義を行うときには、自分が傷つくことを覚悟しなければ行えない」


アンパンマンの作者である、やなせたかし氏自身の言葉である。
正義とは、特別なヒーローが圧倒的な力で悪を倒すというようなものではなく、普通の人が、自分が傷つくことを覚悟の上で行うもの。
だから正義を行おうとして、自分が負けることだって当然ある。
それを厭わないのが正義なのだと、やなせたかし氏は言う。

「たとえば、線路に落ちた子どもを助けようとして、自分が電車に轢かれてしまった人がいるとする。正しいことをやろうとした結果、自分が死んでしまった。だけど、見逃すことができなかったんですね。正義というのは、そういうものなんですね」


人を助けるためには自分が傷付く可能性があるが、それを厭わないと心に決める。
覚悟するということは、そういうことである。
そうした覚悟をもってパトロールをしているからアンパンマンは躊躇しない。
困っている人を見つければ脇目も振らずに、一直線に飛んでいく。


「助ける」という心だけになったとき、きっと、自分の身がどうなるかという観点が頭の中の勘定から消えているのではないか。
私たちも咄嗟の事で体が動くとき、頭で考えるという段階を踏まないから、損得を度外視して体が動くことがある。
アンパンマンは常にそのような状態にあるのかもしれない。


やなせたかし氏の引用文のなかに「見逃すことができなかった」とあるが、重要なのはここだろう。
嫌々おこなったのではなく、助けずにはいられなくて思わず手を差し伸べた。
その心を、仏教では菩提心と呼ぶ。菩提心とは菩薩の心である。


救わなければいけないから救うのではない。
救わずにはいられないから救うのである。
そうした心を菩提心と呼ぶ。
アンパンマンにとって人助けは、仕事なのではなく、人生そのものなのだと思う。


こうしたアンパンマンの行為は「自己犠牲」ととらえられることもある。
事実、やなせたかし氏もアンパンマンの行為を「一種の自己犠牲」と称している。

「アンパンマンも自分の顔をちぎってしまうんだから、一種の自己犠牲ですよね。自分のエネルギーは落ちるんだけど、助けざるを得ないという気持ちね」


犠牲とは、目的を遂げるために大事なものを投げ出すこと。
自己犠牲とは、投げ出すものが自分であるということ。
アンパンマンが行っている行為は、まさに自己犠牲であると言えそうだ。


ただし注意すべきこととして、犠牲という言葉には「嫌々ながらも」というニュアンスがついてまわることが往々にしてある。
こうした意味合いで犠牲という言葉を使い、アンパンマンに当てはめるなら、それは誤りとなるだろう。


やなせたかし氏が明言しているように、アンパンマンの人助けは「見逃すことができなかった」ものであり、「助けざるを得ない」という気持ちから生じたものである。
要するに、自然と助けてしまうのがアンパンマンなのである。
そこに「嫌」という気持ちは存在していない。


こうした心は絵空事のように思えて、じつは私たちの身近にあるものでもある。
たとえば大切な人にプレゼントをしたいと思い、お店で何かを買ったとする。
これも一種の犠牲。
お金という大事なものを投げ出して、相手にプレゼントを贈るという目的を遂げているからである。


しかし通常、人はこれを犠牲とは言わない。
なぜか。
嫌々行うというニュアンスが存在しないからである。
嫌々でない犠牲は、仏教では布施と呼ばれることもある。
見返りを求めない清浄な施しは、尊い布施と呼ばれる。


アンパンマンの行為も同じである。
アンパンマンが行っている自己犠牲とは、いわば「大切な皆へのプレゼント」と呼ぶべきものだ。
そして菩薩が行う人助けもまた同様のものである。


周囲から見ればアンパンマンの行為は自分を損なう自己犠牲に見えるかもしれないが、アンパンマン本人に、はたして自分を犠牲にするなどという意識があったものだろうか。
損なうとか損得とか、そんなことを考える以前にアンパンマンの体と心は自然と動いているように感じられる。


一体、どうしたらこのような行為ができるのか。
道元禅師は、「自分と他人という、区別の心があるうちはできない」と言う。
自分の損益、他人の損益、そのような損得の心があっては、アンパンマンのような生き方はとてもできない。
他人の喜びが自分の喜びとして感じられる、子の喜びが親の喜びになる、そうした自他の壁を超えた心でもって人と接するとき、アンパンマンのような生き方が現れるのだと。


やなせたかし氏が言う「覚悟」の、その2文字は、奇しくもどちらも「さとり」を意味する文字である。
悟りのことを仏教では「菩提」とも呼ぶ。
すると菩提心とは、菩薩の心とは、単に人を救おうとする慈悲の側面だけで成り立つものではなく、自分が傷付くことを厭わない「覚悟」と、自分と他人が別物ではないという悟りの上に成り立っているもののようにも思えてくる。


相手の喜びが自分の喜びになる。
自他を超えた心のアンパンマンは、困った人はいないかと、今も上空をパトロールしていることだろう。