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【禅語の本】禅の入門書にオススメ『糧になる禅語』の内容をご紹介

禅語の本

【禅語の本】禅の入門書にオススメ『糧になる禅語』の内容をご紹介

禅語って、難解そう。
そんなイメージをお持ちの方に、2016年に出版された禅語の本『糧になる禅語』をご紹介いたします。
禅僧が残した珠玉の言葉たちを、どうぞ味わってみてください。


ちなみに、禅語にはどのようなものがあるのか知りたいという方は、下の禅語一覧の記事をどうぞ。
www.zen-essay.com

『糧になる禅語』とは

『糧になる禅語』は、禅語を題材にしたフォトエッセイ

禅語というものが真実の一端を端的に示す言葉であるとしたら、ただ言葉を綴るだけでなく、視覚的に直接訴えかけるものがあったほうが禅語の世界感をイメージしやすいのではないか。
そのような構想から見開き全面に禅語の世界観を表現した写真を印刷し、その写真の上にエッセイが綴ってあります。
1つの禅語を見開き1ページで紹介する、というような感じです。


と、説明しても実物をご覧いただかないことにはまったくイメージが湧かないと思いますので、まずは下の画像をご覧ください。
実際の見開きページの1つです。


禅語,冷暖自知
禅語「冷暖自知」


これは「冷暖自知」という禅語のページになります。
ちなみに冷暖自知とは、「物事は人から聞いたり情報として知っていたりするだけではその本質がわからず、自分で体験することによってはじめて「知る」ことができる」ということを示した禅の言葉。
冷たいか暖かいかは、自分で触れてみれば即座に知ることができる、ということですね。


こういった禅語を全部で62語とりあげ、62編のエッセイと62枚の写真を組み合わせて一冊が作られています。
サンプルとして他にもいくつか掲載していきます。


禅語,独坐大雄峰
禅語「独坐大雄峰」

フォト+エッセイ

なぜフォトエッセイという構成になっているのか。
その理由は2つあります。


1つは、これまでに禅語の書籍でフォトエッセイというものがなかったため
禅語を題材にしたエッセイや、挿絵のような感じでイラストや写真がレイアウトされた本はありますが、フォトエッセイというような「写真+エッセイ」の禅語の本はこれまでに存在しませんでした。


もう1つの理由は、禅語は基本的に頭で理解するだけでなく、体験を通して「腑に落ちる」ような理解をすることで本来の価値が光ってくるものであり、この写真が「体験」を連想することを手助けしてくれる要素になるのではないかと考えたため。


もちろん写真を見ても実際の体験にはなりませんが、言葉では伝えることのできない景色を、写真は明確に伝えてくれます。
先ほどの「冷暖自知」の写真は、山の頂上から朝陽を撮影したものになりますが、「朝陽の美しさ」を表現するのにはもってこいの写真ではないでしょうか。


これがエッセイの内容とリンクすることで、禅語の理解を助けてくれるのではないかと考えたわけです。


禅語,啐啄同時
禅語「啐啄同時」

撮影小話

本書の写真(全てではない)を撮影していただいたのは、岐阜県にスタジオを構える「c-pws」の高山栄一さん。
エネルギーが溢れ出ていて、相当面白い方。
撮影で一番ユニークだったのは、下の「百尺竿頭に一歩を進む」という1編に使用するテントウムシの撮影でした。


禅語,百尺竿頭に一歩を進む
禅語「百尺竿頭に一歩を進む」


じつはこのテントウムシ、スタジオの前にある土手の草むらで見つけたものを、どうにかこうにか苦労しながら葉っぱの先に移動させて撮影したものなんです。
スタジオ内にセットされた葉っぱにそっとテントウムシを移動させるのですが、これがなかなか上手くいかない。
飛んじゃうんですよね、すぐにテントウムシが、パタパタパタ~と。


それで逃げられては新たな一匹を採取しチャレンジして、というのを繰り返して、なんとか葉っぱの先に移動した瞬間を激写したのがこの写真になります。
無事にイメージどおりの写真が撮影できたときは、正直嬉しさよりも安堵のほうが大きかったです。


ちなみに「百尺竿頭に一歩を進む」という禅語は、「これ以上進むことのできないところにいたって、さらにどんな一歩を踏み出すか」という意味の禅語。
テントウムシはあっさりと「飛ぶ」という一歩を見せてくれました。
さて、皆様はどうでしょうか……?
c-pws.com



オススメの読み方

こんな調子でフォトエッセイが連続していきます。
62編全てが独立したショートエッセイになっていますので、好きな場所から読んでいただいてまったく問題ありません
1日1編、朝出掛ける前に読んでいると教えていただいた読者の方もいらっしゃいまして、それは面白い読み方だと思ったこともありました。


禅語とは不思議なもので、頭の中に禅語が残っていると、その言葉の真意にハッと気付くような出来事が日常生活のなかで起こったりします
まさに「腑に落ちる」といった体験で、この「小さな悟り」とも言える体験は、ぜひとも大勢の方に体験していただきたいと思っています。


禅語,随処に主と作る
禅語「随処に主と作る」

購入方法

Amazonをはじめとしたネットでの購入が一番楽で早いと思います。
https://www.amazon.co.jp/糧になる禅語 -いまを充実させる生き方-

出版社は国書刊行会になりますので、そちらから直接購入することももちろん可能です。
www.kokusho.co.jp

出版社は電話やFAXでの注文も可能です。
以下に記載しておきます。
TEL: 03-5970-7421
FAX: 03-5970-7427


発刊直後は、Amazonの「禅入門」の書籍カテゴリーで1位になっていた時期もありましたが、最近はもう確認すらしていません。
怖くて怖くて。


一応、カテゴリー上では、禅の入門書に分類されています。
禅についての概要的な話はありませんが、禅というものの考え方を知る入口としては、オススメできるのではないかと思っています


禅語,泥多ければ仏大なり
禅語「泥多ければ仏大なり」

印税は全額寄付

『糧になる禅語』は、売上のうち、著者印税分を全額寄付させていただいています。
寄付先は「認定NPO法人 国境なき子どもたち(KnK)」。
集まった寄付金は、困難な状況下にある青少年の教育と自立のために活用されます。


「認定NPO法人 国境なき子どもたち」は、2016年3月時点で、カンボジア、フィリピン、ミャンマー、バングラディシュ、パキスタン、パレスチナ、ヨルダン(シリア難民支援)、イラク、日本の、計9の国と地域で活動をしています。
「認定NPO法人 国境なき子どもたち」について詳しく知りたい方は、下のリンクからどうぞ。

発展途上国のストリートチルドレンや人身売買の被害に遭った子どもなど恵まれない青少年を支援するNGO

禅語,他は是れ吾にあらず
禅語「他は是れ吾にあらず」

おわりに

それでは最後に、本書『糧になる禅語』の「あとがき」を転載します。
私は在家から出家して僧侶になりましたが、禅語は人に伝えるだけの価値があると強く感銘を受けたがために、この本を書きました。


なぜ人に伝えるだけの価値があると感じたのか。
以下の「あとがき」をお読みいただき、多少なりご共感いただければ幸いです。


あとがき

数百年、あるいは千年以上も昔に語られた禅語が、なぜ科学技術が飛躍的に発達した現代において、なおも語られ続けているのか。
その答えはじつはとても簡単。
昔も今も「生きる」という人間の根本的な活動のなかで生じる苦悩に変わりがないからなんですね。


いえ、むしろ社会が昔に比べてはるかに複雑化した現代にあって、心を蝕む苦悩は増加したと見たほうがいいかもしれません。
だから苦悩の処方箋とでも呼ぶべき禅語が現代でも語られ続けているのでしょう。


外に眼を向けて、世界とは何なのかを考え、内に眼を向けて、自分とは何なのかを考える。
生きるという、当たり前のようでいて目的のわからないこの人生とは何なのか。
それらの問いに対して、幾人もの僧が苦悩の末に辿り着いたその人にとっての答え、それが禅語です。


そもそも禅とは、特定の思想や教義を説いたものではありません。
あらゆる物事を感受しているのは自分の心なんだから、心を整えることで人生を安らかに生きていくことができるとした、哲学の実践のようなものです。


だから禅語は、誰もが理解でき、納得のできる普遍的な思考以外の何ものでもありません。
ちょっと小難しそうな漢字の羅列が原因で、敬遠されがちですけれどね。


何を信じていても、何を信じていなくても、どのような人にとっても大切な心の糧となりえるもの。
生きづらさを感じている人にとって、未来を明るく照らす灯火となりえるもの。
それが禅語です。
だからこそ禅語は、多くの方々に伝える価値があるのです。


人は誰もが幸せを求めて生きています。
けれどもその幸せとは何なのかと、あらためて幸せというものを問い、その問いをずっとずっと深めて考えていこうとする人は、あまりいません。
でも、幸せが何なのかをはっきりと理解せずして、どうして幸せになれるでしょう。


それはまるで、目的地が定まっていないのに目的に向かって歩き出すようなもの。
なんとなくあっちに幸せがある気がする。
誰かもそう言っていた。
ほかの人もあっちに向かって歩いている。
だからたぶん、幸せはあっちにある――。


本当にそうでしょうか?


今とても幸せだという人も、幸せだなんてこれっぽっちも思わないという人も、どちらの人にも共通している大切な、しかし見過ごされがちな事実。
それは、幸せも不幸せも、自分の心が感じていることであるという単純な事実。


幸せだと心が感じているから幸せなのであり、幸せでないと心が感じているから幸せでないのですね。
幸せは得るものではなくて、感じるものだということ。


つまり、心次第で人生は幸せにも不幸せにも感じられるものなのです。
それなら人は、幸せを感じることができるように心を整えておくことで、人生を幸せに生きることができるはず。
それが禅という生き方の根本であると言えるでしょう。


座右の銘のように、禅語が今を生きる方々の心の糧となりえたら、たとえ混迷する社会にあっても幸せを見失わないで暮らすことができるのではないか。
私は出家して以来、そんなことをずっと考えてきました。


本書を読んだ方が、禅語を単なる情報としてではなく、生きる上での心の糧としていただけたなら、著者としてこんなに嬉しいことはありません。
www.kokusho.co.jp