正法眼蔵「仏性」巻の現代語訳と原文 Part⑪
『正法眼蔵』「仏性」の巻の現代語訳の11回目(最終回)。
仏性の巻は文字数が多いため複数回に分けて掲載をしてきたので、これまでを未読の方は下の記事からどうぞ。
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最終回のテーマは少々変わっていて、長沙禅師に竺という人物が問答をかける話が記載されているのだが、変わっているのはその質問内容。
この竺という人物、「ミミズを半分に斬ったら、仏性はどちらにあるのか?」と長沙禅師に問うてきたのである。
1匹のミミズが半分に斬れて2匹になった場合、どちらのミミズに仏性があるのだろうか……面白いことを考える。
ミミズを斬っても本当にミミズが2匹になるわけではないが、見た目では確かに2匹になる。
ミミズでなくてプラナリアなら、斬れば本当に2匹に分裂する。
その場合、斬れる前の「自分」はどちらのプラナリアにあると言えるのか。
人間でも同じである。
たとえば人間が真っ二つに斬れてしまい、その2つともが奇跡的に生き続けることができた場合、斬れる前の「自分」はどちらにあるのか。
右の自分が「自分」なのか。
左の自分が「自分」なのか。
どちらが自分か。
こうした問いに対して道元禅師は、「1つ」とはどういうことで、「2つ」とはどういうことなのか、といったところを問題にしていく。
また、仏性とは「1つ」というふうに捉えることができるものなのかというところも問題にしていく。
なかなか理解し難い内容かもしれないが、さっそく読み進めていこう。
54節
長沙景岑和尚の会に、竺尚書とふ、「蚯蚓斬れて両段と為る、両頭倶に動く。未審、仏性阿那箇頭にか在る」
師云く、「妄想すること莫れ」
書曰く、「動をいかがせん」
師云く、「只是れ風火の未だ散ぜざるなり」
現代語訳
長沙景岑禅師に、竺という名の人物がこんな質問をした。
「ミミズを斬ると、2つに分裂します。
そしてその2つのどちらもがクネクネと動きます。
不思議でなりません。
一体どちらの体に仏性があるのでしょう」
その問いに対して長沙禅師は一言、
「くだらない妄言を言うな」
しかし竺という人物は引き下がらない。
「妄言ではありません。
実際に、斬られたミミズは2つになっても動いています」
そこで長沙禅師はミミズが動く理由についてこう答えた。
「生物の体を構成している要素がまだ離散していないうちは、動いたって何の不思議もないだろう」
55節
いま尚書いはくの蚯蚓斬為両段は、未斬時は一段なりと決定するか。仏祖の家常に不恁麼なり。蚯蚓もとより一段にあらず、蚯蚓きれて両段にあらず。一両の道取、まさに功夫参学すべし。
両頭倶動といふ両頭は、未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか。両頭の語、たとひ尚書の会不会にかかはるべからず、語話をすつることなかれ。きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。その動といふに倶動といふ、定動智拔ともに動なるべきなり。
未審、仏性在阿那箇頭。仏性斬為両段、未審、蚯蚓在阿那箇頭といふべし。この道得は審細にすべし。両頭倶動、仏性在阿那箇頭といふは、倶動ならば仏性の所在に不堪なりといふか。倶動なれば、動はともに動ずといふとも、仏性の所在は、そのなかにいづれなるべきぞといふか。
現代語訳
さて、このミミズを真っ二つに斬る話であるが、そもそも斬る前は1つの仏性がミミズに具わっていたと竺は考えているのだろうか。
仏法に照らし合わせて考えるなら、その最初の前提が間違っていることを知らねばならない。
ミミズに1つの仏性があるという発想から物事を考えはじめているから、ミミズが2つに斬れたときに、どちらに仏性が残ったのかなどという誤った考えに行き着いてしまうのである。
それではいけない。
なぜそれではいけないのか、これは誰もがよくよく考えてみるべきことである。
ミミズを斬ったらミミズが2匹になるのだとしたら、斬る前は1匹のミミズだったのか。
あるいはミミズが悟りを開いたあとも、やはりミミズはミミズなのだろうか。
ミミズとは何なのか。
竺という人物の理解はひとまず脇においておくとして、この「2つになる」という事柄についてはよくよく考えをめぐらす必要があるだろう。
斬れた2つのミミズは、1匹がミミズのままで、もう1匹はミミズではない何か別のものなのか。
いろいろと考えてみることはできる。
斬れたミミズの両方とも動くことが竺にとっては不可解なようだが、動くべき道理のものならたとえ2つになろうと動くだろう。
竺という人物は、
「どちらのミミズに仏性があるのでしょうか」
と問うたわけだが、それは問い方が間違っている。
真に問うべきは
「仏性が2つに斬れました。どちらがミミズでしょうか」
である。
この違いを理解しておかなければいけない。
また竺は、
「両方とも動いています。どちらに仏性があるのでしょうか」
とも問うている。
ということは、仏性は動くものに宿り、動かないものには仏性がないはずだと考えているということなのか。
どちらも動いているから、どちらに仏性があるのかわからないと言っているのだろうか。
それもまた誤りである。
56節
師いはく、莫妄想。この宗旨は、作麼生なるべきぞ。妄想することなかれ、といふなり。しかあれば、両頭倶動するに、妄想なし、妄想にあらずといふか、ただ仏性は妄想なしといふか。仏性の論におよばず、両頭の論におよばず、ただ妄想なしと道取するか、とも参究すべし。
動ずるはいかがせんといふは、動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと道取するか、動ずれば仏性にあらざらんと道著するか。
現代語訳
長沙禅師は竺の問いに、一言こう答えた。
「妄想するな」
これは言ってみれば、「それがどうした」とでもいうべき言葉である。
そのことのどこに問題があるのかと、さらに問いを深めるがための一言でもある。
「妄想するな」とは、一体何が「妄想」にあたるのか。
ミミズが2匹になって動いていると考えることが妄想なのか。
仏性についてあれこれ考えていることが妄想なのか。
それとも仏性やミミズについてのことではなく、ただ妄想するなと言ったのか。
これについてもよく考えてみる必要がある。
竺はとにかく、斬られたミミズの両方ともが動いていることが不思議でならなかったようだ。
両方とも動いているから、1つだった仏性が2つに増えたのだろうかと疑い、仏性がなければ動かないはずだと訝った。
そうした考えからどうしても離れることができなかったのだろう。
57節
風火未散といふは、仏性を出現せしむるなるべし。仏性なりとやせん、風火なりとやせん。仏性と風火と、倶出すといふべからず、一出一不出といふべからず、風火すなはち仏性といふべからず。ゆゑに長沙は蚯蚓有仏性といはず、蚯蚓無仏性といはず。ただ莫妄想と道取す、風火未散と道取す。仏性の活計は、長沙の道を卜度すべし。風火未散といふ言語、しづかに功夫すべし。未散といふは、いかなる道理かある。風火のあつまれりけるが、散ずべき期いまだしきと道取するに、未散といふか。しかあるべからざるなり。風火未散はほとけ法をとく、未散風火は法ほとけをとく。たとへば一音の法をとく時節到来なり。説法の一音なる、到来の時節なり。法は一音なり、一音の法なるゆゑに。
現代語訳
長沙禅師は、ミミズを構成する要素がまだ離散していないと言った。
生物は四つの要素、つまりは地・水・火・風より構成されているというのが仏教の考え方だが、その四つの要素がまだ離散していないということだ。
これはおそらく仏性はなくなっていないという意味でもあるのだろう。
ミミズとは仏性であり、要素であるのだと。
ただし仏性と要素は同じものではない。
だから長沙禅師は竺のミミズに対する問いに対して、有仏性や無仏性という言葉を用いなかった。
ただ、妄想するなと言った。
ミミズを構成する要素が離散していないから動くのだと言った。
仏性のはたらきというものについて、長沙禅師の意図はどこにあったのだろう。
ミミズの要素が離散していないとは、一体どういうことなのか。
集まった要素が散り散りに離れていないことだけを言っているのか。
そうではないはずである。
これは、ミミズがその存在でもって仏法を説いているということだろう。
ミミズが斬れたという事柄にも、大事な仏法が説かれている。
わずかな音や言葉にでさえ仏法は説かれているのだから。
仏法とは真実の在りようそのものだから、あらゆるものが真実を説いているのである。
58節
又、仏性は生のときのみにありて、死のときはなかるべしとおもふ、もとも少聞薄解なり。生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり。風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。たとひ散のときも仏性有なるべし、仏性無なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。しかあるを、仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは、外道なり。
現代語訳
仏性は生きているときには具わっていて、死んだときには具わっていないと考えるのは、仏性について知らない者の言うことである。
生も仏性であり、死も仏性である。
ミミズを構成する要素の集散と仏性はどのように関わっているのか。
たとえ要素が散り散りになろうと、それもまた仏性にほかならない。
要素が集まっていようと、それもまた仏性である。
およそこの世界に仏性でないものはなく、したがって動くものと動かないものとで仏性の有無を分けて考えるようなことをしてはならない。
仏性とは認識によって感得される霊妙なものだとか、知ることによって仏性があらわれるというような誤った考え方も、まったく仏教ではない。
59節
無始劫来は、癡人おほく識神を認じて仏性とせり、本来人とせる、笑殺人なり。さらに仏性を道取するに、拕泥滞水なるべきにあらざれども、牆壁瓦礫なり。向上に道取するとき、作麼生ならんかこれ仏性。また委悉すや。
三頭八臂。
正法眼蔵仏性第三
現代語訳
始まりがわからないほどの大昔から、愚かな人は仏性というものを不思議で超常的な意識の働きだと考えてきた。
そのような不可思議な力が人間に宿っているのだと。
笑わせてくれるわ。
これまで仏性について多くの先人の逸話を例に出してきた。
これ以上もう何かを話す必要はないだろう。
その辺りに落ちている瓦礫だって仏性にほかならないのだから。
仏性とは何か。
さて、少しはわかっただろうか。
仏性は論理で理解するものではない。
この世界、仏性のあらわれでないものは何1つとして存在しないのである。
『正法眼蔵』第三 仏性の巻
(おわり)