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『正法眼蔵』第四「身心学道」巻の概要と現代語訳と原文

正法眼蔵,身心学道

『正法眼蔵』第四「身心学道」巻の概要と現代語訳と原文

正法眼蔵』の第四巻である「身心学道」という表題の「身心」とは、身と心のこと。
また「学道」とは、仏道を学ぶということ。


つまり「身心学道」とは、「仏道を学ぶのには身で学ぶのと心で学ぶのと2つの柱がある」という意味の表題となる。


道元禅師はその2つを「身学道」と「心学道」と呼び、まず前半で「心学道」について教えを説く。
次いで後半で「身学道」について教えを説き、それでこの巻は結ばれる。
前巻(第三巻)の「仏性」巻に比べれば、意図するところも内容もはるかに簡明だ。
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修行とはもちろん「行いを修める」ことであるから、実際に「行じる」ことが要と言える。
仏法について「考える」ことが無意味なわけでは決してないが、考えるのと行じるのとではやはり意味が違ってくる。


そしてその行には、身と心と2つの視点があり、この2つを正しく捉えて仏道修行に邁進することが重要であると禅師は説く。
その点から考えると「身心学道」の巻は、身と心の両面からきちんと仏道を歩めているか、自らの歩みを点検するための巻と言えるかもしれない。


さあ、それでは、「身心学道」の中心テーマである「心で学ぶ」「身で学ぶ」とは一体どういうことなのかを紐解くために、さっそく内容へと入っていきたい。


1節

仏道は、不道を擬するに不得なり、不学を擬するに転遠なり。
南嶽大慧禅師のいはく、修証はなきにあらず、染汚することえじ。
仏道を学せざれば、すなはち外道闡提等の道に墮在す。このゆゑに、前仏後仏かならず仏道を修行するなり。

現代語訳

仏道とは、自らの足で歩まなければ現れることのない道であり、学ぼうとする心がなければ正しく歩むことのできない道である。
逆に言えば、仏道とはどこか遠くにある道ではなく、正しく生きる誰の足元にも現れる道ということである。


南嶽大慧禅師は次のように言った。

「修行や悟りといったものがないわけではない。
しかし、思慮分別という頭の働きで仏道を理解しようとするなら、これを掴むことは遂にできない」


仏道を頭で理解しようとするのではなく、自らの足で仏道を歩むのでなければ、苦悩と安らぎの真理を明らかにすることはできず、迷いのなかで一生を終えることになるだろう。
そうであるから、ブッダをはじめ真理を明らかにして仏と呼ばれるようになった祖師方はみな、自らの足で仏道を歩んだのである。

2節

仏道を学するに、しばらくふたつあり。いはゆる心をもて学し、身をもて学するなり。
心をもて学するとは、あらゆる心をもて学するなり。その心といふは、質多心、汗栗駄心、矣栗駄心等なり。又、感応道交して、菩提心をおこしてのち、仏の大道に歸依し、發菩提心の行李を学するなり。たとひいまだ真実の菩提心おこらずといふとも、さきに菩提心をおこせりし仏の法をならふべし。これ發菩提心なり、赤心片片なり、古仏心なり、平常心なり、三界一心なり。

現代語訳

仏道を歩むということには、2つの柱がある。
1つは、心で仏道を学ぶということ。
もう1つは、身で仏道を学ぶということだ。


まず心で学ぶということについてであるが、心と言ってもいろいろな心がある
意識や経験は心である。
心臓のように形ある心もある。
物事の要も心と呼ばれる。


また、仏や菩薩と心が通じるような体験をすると、悟りを求めて生きていこうとする心が生じることがある。
仏教ではこれを菩提心と呼ぶ。
その菩提心にしたがって仏道を歩み、仏教について学んでいくこともあるだろう。


仮に、それが苦悩と安らぎの真実を明らかにしようとする心でなかったとしても、仏道を歩んだ先人の足跡をなぞって生きていくことは大切なことだ。
なぜなら、そうして歩んでいくうちに真の菩提心が芽生えることがあるからである。


これが菩提心を起こすということであり、真実の心であり、先人の心であり、常に保つべき心であり、あらゆる世界がすべて真実にほかならないと感得する心である。

3節

これらの心を放下して学道するあり、拈挙して学道するあり。このとき、思量して学道す、不思量して学道す。あるいは金襴衣を正伝し、金襴衣を稟受す。あるいは汝得吾髓あり、三拝依立而立あり。碓米伝衣する、以心学心なり。剃髪染衣、すなはち回心なり、明心なり。踰城し入山する、出一心、入一心なり。山の所入なる、思量箇不思量底なり。世の所捨なる、非思量なり。これを眼睛に団じきたること二三斛、これを業識に弄しきたること千万端なり。かくのごとく学道するに、有功に賞おのづからきたり、有賞に功いまだいたらざれども、ひそかに仏の鼻孔をかりて出気せしめ、驢馬の脚蹄を拈じて印証せしむる、すなはち万古の榜樣なり。

現代語訳

こうした心を、ある者は意識の外に放り捨てて無心に修行に邁進し、またある者は心に廻らすことで修行に邁進した。
思量して学ぶ者がいれば、思量に依らずに学ぶ者もいる。
どちらにせよ、その根本には仏法を歩もうと志す正しい心があるからこそ正しく仏法を学ぶことができるというものである。


祖師方のなかには、袈裟を受け嗣ぐことで法を受け嗣いだ者もいた。
「汝、吾が髄を得たり」と、師から悟りを認められた者もいた。
米を搗きつつ悟りにいたった者もいた。
みな、自らの正しい志しによって仏法の心を学んできたのである。


髪を剃り落とし墨染めの衣をまとい僧となるということは、正しい心によって仏道を学ぶということにほかならない。
それはまた、心とは何かと、心を明らかにしていくことと同義であるとも言えるだろう。


ブッダは城での暮らしを捨て、世俗を捨て、修行のために山へと入っていった。
城を出る心も山に入る心も、真実を明らかにしようと志す自己の本心、一心によるものであったと察する。


修行を志し山に入ったブッダの心を、理屈でもってあれこれ示すのは相応しくなく、世俗の生活を捨てた心境もまた、考えて理解できるものではない。


ブッダの心が如何ばかりであったか。
それを知ろうと思うなら、眼を見開いてブッダの心を見つめ、自己の心でもって幾度となく慮るのだ
そうした心で仏道を歩むなら、功あってその報いを得ることもあるだろうし、たとえ道を得ることができなくても、悟りを開いた祖師方の歩みをなぞることで、いつの間にか修行の功があらわれてくるだろう。


正しい志しのもとで修行に邁進すれば、いかに凡庸な者であっても仏道を歩むことができる。
仏として生きることができる。
これこそが、はるか昔から変わることのない仏道の理である。