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『正法眼蔵』第六「行仏威儀」巻の概要と現代語訳と原文

正法眼蔵,行仏威儀

『正法眼蔵』第六「行仏威儀」巻の概要と現代語訳と原文

 
正法眼蔵の第六巻のタイトルは「行仏威儀(ぎょうぶついぎ)」。
一般にはまず馴染みのない言葉だと思われるが、曹洞宗に限れば比較的身近な言葉である。


行仏とは、仏の行いを行じていくこと。
威儀とは、日常生活のすべてのこと。
つまり行仏威儀とは、普段の生活のすべてを仏のごとくに行じていくことを意味し、それについて述べられた巻ということができる。


「威儀」について、詳しくは下の記事を
www.zen-essay.com


道元禅師が主張する修行と悟りの関係は、修行の末に悟りというゴールがあるのではなく、修行をするその姿が仏そのものであるから、悟りとは修行のなかにある、つまり修行と悟りは一体のものであり、別々に考えるべきものではないというものである。


自転車を漕いでいるあいだだけ点灯するライトのように、修行をしているあいだだけ仏として生きているという発想である。
修行と言ってしまうとどうしても特別な行いのように聞こえてしまう恐れがあるため、「仏の行い」と表現したほうがいいかもしれない。
修行をした結果として仏になるのではなく、仏として生きているとき、人は仏になっているという発想である。


「仏ならどう行動するか」と考えて日々生活していけば、それは仏行であると言え、修行であると言え、行仏であると言える。
こうした修行観、修証観こそ、道元禅師の思想の中心であると考えられ、延いては曹洞宗がもっとも重要視するところなのだ。


永平寺などの修行道場で、日々の生活のすべてが修行であるとしきりに説かれるのも、このような理由による。
これを主題としたのが、正法眼蔵第六「行仏威儀」となる。


1節

諸仏かならず威儀を行足す、これ行仏なり。行仏それ報仏にあらず、化仏にあらず、自性身仏にあらず、他性身仏にあらず。始覚本覚にあらず、性覚無覚にあらず。如是等仏、たえて行仏に斉肩することうべからず。

現代語訳

悟りを開いた者たちは必ず、仏として自らの人生を歩んでいった。
行住坐臥、つまりは日常生活のあらゆる事柄を、仏として行じていった。
このように、一挙手一投足が仏のそれに適うものであるように日々生きていくことを、行仏威儀という


人は善行の報いによって仏になるのではない。
神通力のようなもので仏になるのでもない。
教えそのものが仏なのでもない。
人に応じて姿を現すのが仏なのでもない。


人ははじめから仏なのでもない。
人に具わる仏の性質が仏なのでもない。
仏という実体があるのでもなく、仏が存在しないということでもない。


この現実の世界を仏として生きるとき、人は仏になっているのである
そのことを指して、「仏を行じていく」という。
これが行仏である。

2節

しるべし、諸仏の仏道にある、覚をまたざるなり。仏向上の道に行履を通達せること、唯行仏のみなり。自性仏等、夢也未見在なるところなり。この行仏は、頭頭に威儀現成するゆえに、身前に威儀現成す、道前に化機漏泄すること、亙時なり、亙方なり、亙仏なり亙行なり。行仏にあらざれば、仏縛法縛いまだ解脱せず、仏魔法魔に黨類せらるるなり。

現代語訳

そもそも心得ておかねばならないのは、悟りを開いた仏たちは、修行によって悟りを開くことを求めていたわけではないということである。
仏として生きる道の上に、自分の歩みを重ねていった。
つまりは行仏、仏として生きる道を歩んだということである。


仏を概念としてしか考えることのできない者にとって、この現実の世界を仏として生きるという行仏の考え方は、夢にも思わないことかもしれない。
仏として生きるとき、1人ひとりの生き様は仏の生き様となっている。
仏としての在り方が、その身をもって体現されるのである。
仏の姿が滲み出る、とでも言えようか。


仏として生きるのに、時を選ぶ必要はない。いつでも仏として生きればいい。
場所を選ぶ必要もない。
人を選ぶ必要もない。
行いを選ぶ必要もない。


このようにして現実に仏として生きることがなければ、仏になったとか悟りを開いたとか、何を言おうがそれは概念としての仏や悟りの域を出ず、かえって仏や悟りといった妄執に縛られていることになる。
言わば悟りという魔物に取り憑かれている状態である。


3節

仏縛といふは、菩提を菩提と知見解会する、即知見、即解会に即縛せられぬるなり。一念を経歴するに、なほいまだ解脱の期を期せず、いたづらに錯解す。菩提をすなはち菩提なりと見解せん、これ菩提相応の知見なるべし。たれかこれを邪見といはんと想憶す、これすなはち無縄自縛なり。縛縛綿綿として樹倒藤枯にあらず。いたづらに仏辺の窠窟に活計せるのみなり。法身のやまふをしらず、報身の窮をしらず。

現代語訳

悟りに執着すれば、悟りに縛られる。
悟りというものを頭で理解したつもりになれば、もうそれは悟りに縛られていると言っていい。


だから悟りを理解しようと考えれば、その時点でもう悟りからほど遠いのである。
それは誤った方法だと言わざるをえない。


したがって悟りとは何かと問うならば、悟りは悟りであると、そう解すしかない。
頭で考えるのではなく、悟りそのものを対象とするしかない。
悟りは悟りであるという、この事実について誰が異論を唱えることができるだろうか。


しかしながら、それもまた言語で悟りを捉えようとしている嫌いがあり、目には見えない縄によって知らず知らずのうちに自分を縛っていってしまう危険性がある。
そうした考えが自分のなかに残ると、簡単には消えない。


こうなってしまうと、悟りの周辺の巣窟に住み着き、ついに悟ることができないことにもなりかねない。
それは、悟りを体現していくべき身体が病にかかっていることに気が付かないようなものであり、自身の危うさに気が付いていない状態と言える。

4節

教家・経師・論師等の仏道を遠聞せる、なほしいはく「法性に即して法性の見を起す、即ち是れ無明なり」。この教家のいはくは、法性に法性の見おこるに、法性の縛をいはず、さらに無明の縛をかさぬ、法性の縛あることをしらず。あはれむべしといへども、無明縛のかさなれるをしれるは、発菩提心の種子となりぬべし。いま行仏、かつてかくのごとくの縛に縛せられざるなり。

現代語訳

仏法を言語や学問として理解しようとする学者たちは、仏法を遠くから聞いたような者たちである。
彼らは言う。


「存在について、存在そのものを見ることなく、いろいろな説をあれこれ主張するのは、真に存在とは何かを知らないからである。これを無明(無知)という」


彼らは、言葉によって真理を究明しようとすることにおいて、すでに言葉に縛られている。
憐れむべきことではあるが、無明に縛られているということは知っているのだから、それは悟りを探求する種となることだろう。


言語を離れ、概念を離れた行仏は、これらに束縛されることはない。

5節

かるがゆゑに「我れ本より菩薩道を行じて、成る所の寿命、今なほ未だ尽きず、また上の数に倍せり」なり。
しるべし、菩薩の寿命いまに連綿とあるにあらず、仏寿命の過去に布遍せるにあらず。いまいふ上数は、全所成なり。いひきたる今猶は、全寿命なり。我本行たとひ万里一条鉄なりとも、百年抛却任縦横なり。
しかあればすなはち、修証は無にあらず、修証は有にあらず、修証は染汚にあらず。無仏無人の所在に百千万ありといへども、行仏を染汚せず。ゆゑに行仏の修証に染汚せられざるなり。修証の不染汚なるにはあらず、この不染汚、それ不無なり。

現代語訳

このようであるからブッダは「菩薩の道を行じてきたが、寿命はなお尽きず、今後も尽きることはない」といわれている。


これは、ブッダの寿命が現在にまで続いているという意味ではない。
あるいは、ブッダが生まれる以前にまで広がっているという意味でもない。
すべてなのである。
仏として生きるとき、その全ての時間において、人はブッダたりえるのである。
だからこそ、たとえ歩む道が険しいものであろうと、人生のすべての時間をかけて、仏の道を歩むべきなのだ。


仏の行いを行じていくことが修行であり、その修行によって悟らないということはない。
しかしながら、悟りというものが有るというのも、また誤っている。
悟りに捉われないでこそ、悟りだからである。


悟りもない、仏もない。そのようでありながら、悟りと仏は世界に満ちている。
悟りや仏を行じていくとき、それらに捉われることがなければ、悟りだの修行だのといった言葉に惑わされることはないからである