禅の視点 - life -

禅語の意味、経典の現代語訳、仏教や曹洞宗、葬儀や坐禅などの解説

後悔と馬鹿

人前で何かを話し終えて、少し時間が経った頃に、ああ、あの事を話し損ねた、あの事を忘れていた、と悔しく思い返すことがある。そんな時は往々にして、損ね忘れていた話を織り交ぜて一から話をなぞってしまう。慰めるように、誰にともなく、独り言のように、小さく声に出して。1時間も、2時間も、引きずる時には時を超えて日にも跨がって思い返すこともある。


以前、中学生になる息子が、試験の前に勉強をせずに試験後に試験範囲の勉強をしたことがあった。提出しないといけないからと。そんな馬鹿な話があるか。同じ時間と努力を必要とするのに、わざわざ試験後に試験範囲の勉強をする馬鹿があるかと思った。実際、それは馬鹿なやり方だからちゃんと試験前に勉強して提出するようにしよう、と息子に伝えた。


ふと、冷静になって思った。話をする準備を怠った自分は、話をした後にもう一度話をなぞっている。試験後に試験範囲の勉強をする息子と、何が違うのか、何も違わないのではないか。


上を向いて、天井を見つめながら、ため息が漏れる。別におかしくもなんともない。自分がその程度の人間であることは知っている。何も違和感はない。むしろ、すっきり清々しくて納得してしまうのである。そのようなものだ、と。人間一般に当てはめて論じてしまうと叱られるかもしれないが、それでも心の内では、人間とはそのような後悔と馬鹿を背負って生きていく存在なんだろうなと思ってしまう。そして、それでいいのかもしれないとも思ってしまう。


都合のいいように、自分を納得させてしまう生き物なのだ。たぶん、人間というのは、つくづく。