四聖句(しせいく)ってご存じですか?
四聖句というのは、禅をインドから中国に伝えた達磨大師(だるまだいし)が残したと伝えられている言葉なんですが、禅の特徴を端的に示した名句ということで、ただの四句ではなく四聖句と呼ばれています。
四聖句以前に「そもそも禅がわからねぇ……」と落ち込んでいる方も、達磨大師が残したこの四聖句を知れば禅を理解する一助になるかもしれません。なんといっても、「禅の特徴を端的に示した名句」ですからね。
それでは達磨大師の四聖句についてみていきましょう。
縁起物のダルマって、達磨大師が坐禅してる姿を模したものらしいよ
四聖句とは何か?
達磨大師が残したという四聖句とは、次の四句のことです。
- 不立文字(ふりゅうもんじ)
- 教化別伝(きょうげべつでん)
- 直指人心(じきしにんしん)
- 見性成仏(けんしょうじょうぶつ)
四字熟語が四つの、比較的短い句になります。
では、それぞれの句がどのような意味なのか、少し詳しくみていきましょう。
不立文字
まず一句目ですが、「ふりゅうもんじ」と読みます。
「文字を立てない」と読みますが、「文字を立てない」ってどういうことなんでしょう。
文字を立てない……? 文字って……もともと立ってなくない?
そもそも禅でも仏教でも、目指すべきものは「悟り」です。悟りのことを「仏」とも表現しますが、「文字を立てない」とは、この悟りそのものを文字で示すことはできない、ということ。禅には体験(行)を重んじるという特徴がありますが、たとえば登山をして山頂に到達したときの気持ちを人に伝えたいと思った場合、どのようにして伝えるでしょうか。
おそらく「360°見渡す限り空ばかりで感動する景色だった」「疲れたけど疲れが吹き飛ぶような美しい景色だった」とか、とにかくその時の驚きや感激といった感情や情景を言葉にして伝えるのではないでしょうか。
富士山頂から拝んだ御来光は、本当に感動したもんだ
するとそれを聞いた人は、その言葉をもとにその人の気持ちを想像します。感動したんだな、嬉しかったんだな、とにかく素晴らしい体験をしたんだな、と。感情がある程度共有できれば、伝えた人は「自分の気持ちが伝わった」と感じるでしょう。聞いた側も、伝わったと思うと思います。
が、しかし、それは山頂到達の気持ちについて表現された言葉(情報)が伝わっただけで、登頂した際の気持ちそのものが伝わったわけではありません。
登頂した時の気持ちは登頂した本人以外には決してわかりようがないのであり、誰かの登頂の感想(情報)を聞いて登頂した時の実際の気持ちを知るということは不可能です。
擬似的なもの、よく似ている情報を伝えることは可能であり、情報を理解することも可能ですが、そのものを伝えることは誰にもできません。
じゃあ、どうしたらいいって言うのさー!!
禅なら、「あなたも実際に登ってみれば?」と、こうなるでしょうか。
自分も実際に登ってみれば、登頂したときに何を感じるのかを知ることができます。相手の気持ちと同じ気持ちになるというわけではありませんが、少なくとも「山頂に到達した際の自分の気持ち」を知ることはできます。
言葉というのはあくまでも情報に過ぎず、その情報に惑わされることなく、自分も実際に体験して相手と同じ土俵に立ってみる。「知る」とは自分の体験を通して知る以外にはありえないのであり、悟りもまた同じことであるというのが、不立文字というわけです。
人からの情報ではなく、自分の体験によって「知る」ことが本物の知識
教化別伝
二句目は「きょうげべつでん」と読みます。
教化というのは教え導くことで、これは要するに教えが書かれた経本のこと。言葉によって残された教えということです。
私たち人間が本から学ぶことは、計り知れないくらい意義深い内容を持っています。自分以外の考えというのは、視点や角度が違うというだけで非常に参考になりますし、知見を広げるためにも、見識を深めるためにも、人の考えから学ぶいうことは極めて重要です。
そうした人の言葉はどれだけ重要であっても情報の枠を超えるものではありませんが、情報がなければ考えるにしたって材料が足りない。情報は自分で考えるための材料として重要なのです。情報のままでは不十分。
人の話を聞いて「知ったつもり」になるのは危ないということね
『論語』の第二章には、次の有名な一節があります。
「子曰く、学びて思わざれば即ち罔(くら)く、思いて学ばざれば即ち殆(あやう)し」
人から学ぶ、本から学ぶ、そうして様々な情報を手に入れても、自分で考えるということをしなければ人生に活きる知識とはならない。
また、自分で考えたとしても、広く教えを学んでいなければ独断的な物の見方に堕する。
だいたいそのような意味の言葉となりますが、要するにこれは学ぶことと考えることはどちらも欠かせない、車の両輪のような関係だということでしょう。
人の言葉から学ぶだけではいけない、1人で考えるだけでもいけないんだ
不立文字を標榜する禅でも、文字を学ぶことが無意味だとは決して言いません。禅・曹洞宗の開祖である道元禅師も、坐禅が重要だとは言いいますが、同時に膨大な量の著作(言葉)を残しています。
文字から学ぶことは大切なのです。
ただし、重要なんだけど、文字を学んでそれで終わりじゃない。
文字で伝わってきた教え、人から教わった教え、そうした教えを参考にしつつ、「自らの体験を通して学ぶ」「自分で考えてみる」「実際に生きてみる」という最も重要な学びがあるんだというのが、教化別伝の意味なのだと思います。
学ぶことと考えることは、2つで1つ
直指人心
三句目は「じきしにんしん」です。
直ちに心を指し示してみよ、といったところでしょうか。
たとえば水を知らない人がいたとして、その人に水がどんなものかを伝えるとします。どうやって伝えればいいでしょうか?
透明で、液体で、人にとって欠かせないもの……かな
ちょっと説明として雑かもしれませんけど、まあ、そんなふうな説明もあることでしょう。
それでいくらか伝わるものはあるかもしれませんが、しかし水を知るということにおいて一番手っ取り早いのは、実際に一度水を飲んでもらうことではないでしょうか。
飲んだところで水に関する情報は少ししかわかりませんが、水とはいかなるものか、その人にとって水というものがどういった意味を持つものなのか、そのもっとも肝心となるところを直に知ってもらうことはできます。
あとは、そうねぇ、触るってのもいいかも、ヘレン・ケラーのように
まさかここでヘレン・ケラーの逸話を持ち出してくるとは
直指人心という言葉はまさにここのところを言った言葉でして、言葉でぐだぐだと説明することはナンセンスだし、本を読んで水を知ろうというのもナンセンス。それよりも、今すぐ水を飲んでみよと、それが水そのものだと、直接に核心を突くことを勧めているというわけです。
人の心は醜い時もあれば美しいときもある。醜い心しか思い当たらないという人も、美しい心がないわけではなく、美しく生きていないだけ。
美しい仏の心ってどこにあるのかなと外を探すのではなく、自分にそなわる心に今すぐ目を向けて仏を見出せということが言いたいのだと思います。あれこれ回り道せずに。
四の五の言わずにやってみることも、時には大切
見性成仏
「けんしょうじょうぶつ」と読みます。これが四聖句の最後の句になります。
これは3つ目の直指人心を踏まえての言葉ですが、自分の心に目を向けてみれば(直指人心)、そこに仏がおるじゃろう(見性成仏)といったほどの言葉です。それ以外に仏なんてものはおらんよ、でもいいですね。
「性」というのは仏性のことで、仏性というのは「仏となる性質」「仏となる可能性」といった意味で、人間の心の奥底には仏性という本性が眠っているのだという考え方です。
そしてこの仏性に気づいて自分こそが仏であると徹見することを見性成仏と言います。
外ではなく内なんだ、自分の心が重要なんだ、というのは映画などにありふれたフレーズかもしれませんが、そういった言葉の大元になっているのは、もしかしたらこうした禅の言葉なのかもしれません。
「カンフーパンダ」とかで出てきそうな格好いいセリフよね
悟りを開くとか、仏に成るとか、そう言った言葉の意味は「超越的な何か」に変身するという意味では決してありません。
そうではなくて、自分こそが仏であることに気づくこと。もっと言えば、仏という存在がいるのではなく、仏の心で生きる人が仏なんだと気づくこと。
それが見性成仏「(自分の)仏性を徹見して仏と成る」という言葉の意味なのではないでしょうか。
鬼になるのも、仏になるのも、自分の心しだいだと気づくこと
四聖句を訳してみよう
以上を踏まえて、四聖句を勢いよく訳してみましょう。
- 言葉はどこまでも借り物でしかない
- 人の言葉のなかに悟りを求めるな
- 仏として生きる心はどこにある
- その心が悟りでなくて何なのだ
別に訳に正解があるわけではありませんが、私は四聖句という禅の教えは上記のようなことが言いたいのではないかと思っています。
意味に正解はない?
もちろん受け取り方は人それぞれでいいですし、それこそ文字にこだわっても悟りなんて開けないぞという達磨大師の四聖句の忠告どおりで、重要なのは文字の意味を研究することではありません。
そうではなくて、直ちに自分の心に目を向けよという、そんな句でしたよね。
これが禅の特徴を捉えた名句というわけですが、いかがでしょう、禅というものの理解への、多少は足しになったでしょうか。
不立文字 → 情報注意
教化別伝 → 体験重視
直指人心 → 人心仏心
見性成仏 → 徹見成仏
と受け取れば、確かに禅の特徴を示しているのかなぁという気はします。「今」「ここ」「自分」というのが禅の三大ポイントだと私は思っていますが、それに近いニュアンスの言葉であるように思います。
道元禅師の四聖句批判
ただし、道元禅師はこの四聖句に対してちょっと批判的といいますか、注意すべきことがあるとして言葉を残していましてね、たとえば『正法眼蔵』仏性の巻では次のように指摘しています。
お釈迦さまが説いた教えのほかに、特定の弟子にだけ心から心に伝わった秘伝のようなものがあり、それが仏法の神髄だという意味で「不立文字・教化別伝」というのなら、それは間違いである。
また、心から心に伝わったものが最高真理であるから、このお釈迦さまの心の教えが最上のもので、それを悟れば仏になるという意味で「直指人心・見性成仏」というのなら、それも間違いである。
仏性というのは「仏となる性質」とか「仏となる可能性」といったふうに理解されるのが一般的で、そうした資質が自分のなかに眠っている(有る)のだとする考え方が仏教における通常の理解です。
ですが、道元禅師は明確にそれを批判するんですね。
何がダメなのかというと、まるで人間の心と仏の心と、異なるものが2つあるかのような理解を批判するんです。自分と仏と、異なるもののように考えるのを批判するんです。
「自分のなかに眠る仏性に気づく」ということになると、仏性というものがあって、それを見る自分がいるということで、仏性と自分とが別れていますよね。それはありえないと道元禅師は言います。
道元禅師の思想って、ちょっと難解すぎない? 悟りの世界の言葉だもんよ
「仏性を見るというのなら、仏性を見ている自分は何なのか。仮に自分のなかに仏性があるというのなら、仏性を見る自分の、その自分のほうに仏性がなければおかしいだろう。何がどこを見ているっ!!」「自分こそが仏性でなくて何なのだ。自分のなかにある仏性を見るというのは、結局、自分の外に仏性を探しているのと同じではないかっ!!」
「仏性と自分とは1枚であり、どこまでいっても分けられるものではない。自分が仏性、一切が仏性、別々のものとして捉えた瞬間にもう間違いなのだっ!!」
と、まあ、そんな感じで痛烈に批判するわけです。自分が仏であるということの意味に妥協を許さないとも言えますね。両者は1枚なんだと。
うーん……なんだか哲学的でよくわからんぞ……
少しややこしく感じる指摘ですが、これは実際、極めて鋭い指摘だと思います。
私も、「自分のなかに仏が眠っている」という「仏というものがある」といった理解は好きではありません。そうではなくて、「仏として生きるから仏である」というのが持論です。
修羅として生きるからその人は修羅なのであり、鬼として生きるから鬼なのであり、獣として生きるから獣なのであり、人間として生きるから人間なのであり、仏として生きるから仏である。
どうとでも生きれる。自分の心はどうとでもなる。精神はまったくの自由である。
これが私にとっての「仏の可能性=仏性」とでも呼ぶべきもの。誰だって、仏として生きる限り仏様でしょう。
仏の心が「ある」のではなく、仏の心で「生きる」。
心と言ってしまうと、まるで心というものがあるかのように思いますけど、人間のなかに心なんて実体はありません。「今をどう生きているか」それが全てなのではないでしょうか。
仏として生きるから仏である……誰もが仏として生きていける……