「人生は一度きり」という言葉を、たまに見聞きする。
それはもちろんそのとおりで、人生はまさに一度きりのもの。二度はない。過ぎた時間は戻らないから、過ぎてしまえば取り返しようがありません。「人生は一度きり」ええ、そのとおりです。
ただ、この「人生は一度きり」という言葉を聞くたびに、なんだか大事なことをオブラートに包んでしまっているような、肝心なものが抜け落ちてしまっているような、何とも言えない違和感を覚えてしまうんですね。
だからなのか、「人生は一度きり」という言葉が、今一つ真に迫ってこない。言葉が上滑りしてしまっているというか、どこか他人事のように聞こえるというか、そんな経験、なんとなく記憶にありませんか。
「人生は一度きり」なのは、なぜなのか。
それは、自分が死ぬから。
人生が一度きりだから自分が死ぬのではなく、自分が死ぬから人生は一度きりなんです。
すると、「人生は一度きり」ということを理解するには、それ以前に自分が死ぬ存在であることを理解している必要がでてくるわけでしょう。私がひっかかるのはここのところ。
自分が死ぬということを理解、いえ、理解というよりも受容と言ったほうが的確でしょうか、そのようにして自分が死ぬ存在であることを受け入れたからこそ、その結果として「人生は一度きり」であることがはじめて腑に落ちる。我が身のこととして理解される。
逆に、どれだけ「人生は一度きり」と他人から言われようが、「自分が死ぬ」ことを直視することのないままに見聞きしていたのなら、それはどこまでいっても言葉だけの情報にしかなりません。「人生は一度きりなことくらいわかってるよ」と言いつつ、自分が死ぬことを自覚していないという倒錯した状態です。
つまり、そう、「人生は一度きり」ということを理解するためには、「自分は死ぬ」ことを自覚していなくてはならないのです。抜け落ちていると感じられるのはここのところ。自らの死の受容なくして、「人生は一度きり」という言葉の意味を理解することは不可能だということ。
「一度きり」は、他人から聞く情報ではなくて、自分という存在を透徹した結果としてあらわれる答えとも言えます。外からではなく、自分の内から出てくる、必然的な答え。
死の話なんかしたりすると、「縁起でもない」とか「そんな暗い話は嫌だ」というような反応をする方も少なくないようですね。
それは、なぜなのでしょう。死の話を聞きたくないのは、自分が死ぬ存在であることを認識したくないということでしょうか。要するに、死にたくないのでしょうか。死を意識したくないのでしょうか。目を背けていたいのでしょうか。
気持ちはわからないこともありません。自分が死ぬ、という出来事は恐怖を感じるものですから。しかし、前述のとおり、自らの死の受容なくして「人生は一度きり」を理解することはできません。自分の人生がただ一度だけのものでありながら、そのことに深く思いを廻らすことなく生きることが「縁起でもない」ことなのでしょうか。逆でしょう。
自らの死を自覚せず、人生が一度きりのものであることに目を向けないで生きて、いざ死と対面したときに慌てふためいて絶望する。そんな縁起でもない人生がありますか。
本当に人生を大切に生きようと思うのなら、自分という存在について、ゆっくりと自分で問うてみる時間が必要なのです。自分が有限な存在であることの意味を噛みしめることなしに、どうして一度きりという有限を理解することができるでしょう。
自分という存在について考える時間を経ず、自らの死を受容しないままで、自分の人生は一度きりのものだと思うことなんてできません。理解した「ふり」や「つもり」はできるかもしれませんが、そんなもの、何の役にも立ちません。
死から目を背けて「人生は一度きり」であることを受け入れない生き方は、最後に必ず破綻します。なぜなら、人は必ず死ぬから。この事実は、いくら否定しようとしても変わることはありません。
死を否定しようと意地を張るのではなく、自分が死ぬ存在であることを受け止めた上で、じゃあどうやって生きればいいのかと考える。その瞬間に自分の足元に広がるのが「一度きりの人生」です。ああ、一度きりなんだ、もう二度と戻せないんだ。「ヒト」も「モノ」も「デキゴト」も、何一つ掴んでおくことはできないんだ。そんな自覚と経験によって、私たちは「一度きり」の意味を理解していく。
自分が死ぬ存在であることをはっきりと受け止めたとき、人は否が応でも、人生が一度だけのものであることに気づくことでしょう。他人から言われることではなく、切実な自分自身の現実として、どうしたってこの答えに辿り着くのです。
わかっていた答えなのか。わかりたくない答えなのか。わかっているようで、わかっていなかった答えなのか。それとも、わかっていないようで、じつはわかっていた答えなのか。
「人生は一度きり」という言葉は、罪な言葉です。人が本能的に「死」を避けようとしてしまうゆえのイタズラなのかもしれませんが、大事な部分の焦点が巧妙にずらされており、意味がぼけてしまっているのです。
なぜ一度きりなのか。
大事なのは、そちらのほうだというのに。