【群盲象を評す】平面的な意見と、立体的な真実の関係
仏典のなかに「群盲象を評す」という話が出てくる。
古くからインドに伝わる寓話で、仏教をはじめ多くの宗教や国・地域で語られることにもなっている話なのだが、これがシンプルながら非常に鋭い例え話で、時代を超えた普遍的示唆に富んでいる。
要点のみを言えば、次のような内容だ。
目が見えない盲目の人間が数名集められ、その人たち全員に象を触ってもらった。
当人たちは目が見えないので、当然のことながら象という動物を見たことはない。
そこで、触った感触から象という動物がどのようなものか、感想を述べてもらった。
人々はそれぞれの触った感触から感想を述べた。
しかし象に触れた盲目の人々は、象の体のすべてを触ったわけではなかった。
そのため人々の感想はみな同じ1頭の象についてのものでありながら、その話す内容はみなバラバラだった。
たとえば、鼻に触れた人は、象という動物は御輿を担ぐときの棒のような生き物だと言い、牙に触れた人は杵のような生き物だと言い、耳に触れた人は箕のような生き物だと言い、足に触れた人は臼のような生き物だと言い、尻尾に触れた人は縄のような生き物だと言った。
盲目の人々はみな自分の感想こそが正しいと主張した。
象とはこのようなものであると。
それもそのはず、確かに人々は自分の触った部位の形状や特徴を的確に表現していたのである。
しかしながら、それらの感想はすべて象の一部についての感想であって、象そのものの感想ではなかった。
象という全体を知らないがために、一部分のみを触ってそれがすべてだと思い込んでしまった人々。
正しいと信じて疑わない自分の主張が、全体ではなく一部についてのものにすぎないという盲点に気が付かず、互いに他の主張を批判してしまうことの虚しさ。
これが「群盲象を評す」と呼ばれる話の概要である。
「群盲象を評す」から学ぶこと
一応断わっておきたいが、これは目が見えない人を愚弄する話ではない。
仏教における盲人とは、実際に目が見えないことを意味するのではなく、真理に対する見識がないことをいう。
ブッダという名前の意味が「目覚めた人」であるのと同じように、真理に目覚めていない人、真実に目を向けようとしない人を指して、「未だ目覚めぬ人」の意で「盲人」と表現しているというわけだ。
自分の意見にしがみついている間は、象そのものを見ることはできない。
たとえ自分の意見が正しくても、それは事実の一側面にすぎず、真実であるところの全体像を知らずして物事は語れない。
「群盲象を評す」という話からはそんな教訓を受け取ることができる。
あるいは、重要なのは一側面の意見ではなく、あらゆる意見を参考にして真実であるところの全体像を考えていこうとする態度であるともいえようか。
思うに、物事はいつだって立体形なのではないか。それも複雑な形をした。
だから見る角度によって物事の形は変わって見え、人は自分の角度から見える形を主張する。
そうした意見は、その角度、つまりはその人の立場においては正しい形かもしれないが、物事自体の形ではない。
難しいのはここである。
一側面は言い当てているだけに、まったくの間違いとは言えないのだ。
しかしそれはやはり一側面でしかなく、正解とも言えない。
側面にとらわれている限りは全体=真実を知ることができないため、明らかにしたいのは角度による物事の一面的な姿ではなく、そのもの自体の本当の姿、立体形としての姿であるのは間違いないだろう。
個の意見というのは大概にして平面形で、そうした意見をいくつもつなぎ合わせることができれば、立体形がおぼろげながらも見えてくるかもしれない。
だから決して一面に対する理解が無駄なのではない。
各人の個の意見は、全体像を把握する上での1ピースになりえる。
ただし、あくまでも1ピースでしかないということは理解しておく必要があるということだ。
A、B、C、Dの意見を聞き、問題のXを考える。
間違っても、A、B、C、Dのどれが正しいかを考えることが真実を考えることなのではない。
あらゆる意見を参考にして、自分の頭で一から考える。
どれかを選択しなければならない場においては、意見が多すぎるのは困りものかもしれないが、真実を考えていこうとする上では、多様な考えは多くのヒントになりえる。
立体を構成する多様な平面を知るというのは、真実の形に近づく足掛かりになる。
サイコロの「1」の面だけを見ていたのでは、サイコロとは「1」であるとの認識しか生まれない。
「2」「3」「4」「5」「6」の情報を得て、それらがすべて別の角度から見た「個の事実」であることを理解することによって、はじめてサイコロというものを立体的に捉えることができる。
サイコロとは「1」だけでなく、「2」といった特徴もあり、「3」という側面もあり、「4」と考えることもできれば、「5」と捉えることもできる。さらには「6」という意見もある。
そうした理解を得て、ようやくサイコロの全体像が見えてくる。
それがわかっていれば、サイコロは「1」であるという平面的な個の意見を主張することに、大きな意味がないこともわかる。
「1」から「6」まで全部あってのサイコロなのだから、考えるべきは「1」ではなくサイコロそのものでなければおかしいということもわかる。
物事は平面ではなく常に立体形をしているという真実を忘れなければ、こうした視野の狭い思考に陥ることはない。
世の中を見渡せば、社会には様々な問題がゴロゴロ山積している。
そしてそれらの問題について、様々な人がそれぞれの立場や思想から多様な意見を述べている。
しかしそうした意見というのは、言わば象の各部位についての意見であって、象そのものを明らかにしようとするものではないことも多い。
だからどの意見が正しいかを選択することに、たいした意味などない。
それよりも、各意見を聞いて、象という動物がどのような姿をしているのか、つまりはその問題がどのような構造になっているのか、それは畢竟何なのか、どこまでも真実について考えていくことのほうがはるかに重要である。
象の各部位について話をするのではなく、本当に明らかにしたいのは象そのもののはずだろう。
問題そのものを深く立体的に考えれば、答えはYESかNOの二択では答えられなくなることが多い。というよりも、二択で答えられる問題などほとんどない。
また、必ずしも正答があるのではないこともわかってくる。
そうして1つの意見に固執することがなくなれば、多様な意見をもとに最善を考えることができるようにもなる。
真実を考え抜くのも、最善を導き出すのも、その一歩目は、個の意見は平面的であり「部位」であるとの認識を持つこと。
考えることの意味とは、常に「象とは何か」という立体形に向けられていなければ正しくないということを、「群盲象を評す」という話は物語っているのではないだろうか。