【禅語】我逢人(がほうじん)
人との出逢いによって、人生は大きく変貌する可能性を秘めている。
あの時、あの人と出逢っていなければ、今の自分はなかった。
そんなふうに振り返ることのできる出来事が、誰の身にも1つや2つあるのではないか。
人と「あう」という言葉に漢字を当てはめるとすれば、普通なら「会う」となる。
けれどももう1つ、「逢う」と記す場合がある。
男女が人目を忍んでこっそりと逢う「逢引き」の文字として使用されていることもあってか、「逢」という漢字は男女の出逢いを匂わせる。
しかし実際には、男女間に限定して使用される漢字というわけではない。
逢うとは、親しみが湧くような「特別な出逢い」を意味している。
道元禅師の「出逢い」
鎌倉時代の話。
曹洞宗の開祖である道元禅師は、十三歳で日本仏教界最高峰の学問所だった比叡山へ修行に上がり出家をした。
そして仏教を学び修行を重ねるなかで、「仏とは何か」「修行とは何か」という疑問を抱くようになる。
道元禅師は疑問を解決するために多くの師に教えを仰いだ。
比叡山を出て、各地を遍歴するなかでも答えを求めた。
しかし、どれだけ多くの師に質問をしても、腑に落ちる答えを聞くことはできなかった。
そこで道元禅師は思い到る。
このまま日本で答えを求めていては駄目だ。
誰かから答えを教えてもらおうとするのではなく、本物の師を見つけ、自分自身で答えを見つけなければ、と。
そのためには本場中国で仏教を学ぶ必要があると考え、海を渡る決心をする。
そして二十四歳の時、道元禅師は日本を旅立った。
現代のような安心安全の船などない。渡航は命がけだった。
それでもどうにか運良く中国へ辿り着くと、道元禅師は師を求めて各地を行脚した。
寺院を訪ねては住職に質問をし、留まって修行をしては疑問の答えを求めた。
しかし、それでも答えは得られなかった。
中国へ渡って二年が経過した。
少しずつ諦めの気持ちが芽生えてきたのか、道元禅師は帰国の準備に取りかかる。
しかしその頃になって偶然、景徳寺という寺院に新しい住職がやってくるという話を耳にする。
道元禅師は、一度は取りかかり始めた帰国の準備を止め、最後の望みをかけて景徳寺へと向かった。
そして、新住職である如浄禅師と運命的な出逢いを果たすことになる。
天童山で初めて如浄禅師と出逢ったその時の思いを、道元禅師は日本に帰国後、次のように述懐している。
「まのあたり先師をみる。これ人にあふなり」
この眼で本物の師を見つけた。
ようやく私は本物の師と出逢うことができた。
飾り気がない分、凝縮した思いが伝わってくる。
一目惚れといっては語弊があるだろうが、道元禅師には「この人物こそは」という印象があったのだと思う。
師弟の間でのみ相通ずる感覚のようなものが、少なくとも道元禅師にはあったのだと察する。
如浄禅師のもとで腰を据えて修行をするようになり、道元禅師はやがて悟りを開く。
疑問の答えも見つかった。
人が最初から仏であったとしても、仏として生きていなければ意味がない。
「仏として生きるから仏なのだ」という、至極単純な答えだった。
足元に転がっているような答えほど、遠くばかりを見る者には見つけられないもの。
そのことに気付くきっかけとなったのは、師との出逢いにほかならない。
出逢いというのは偶然かもしれないが、待っているだけでは訪れないものでもある。
本気の人に出逢うには自分もまた本気でなければならないように、互いに通じ合うものがなければ出逢いにはならない。
偶然と必然がちょうどよく交じる座標に、出逢いというものはあるのだと思う。
出逢いに必要なのは一歩を踏み出すこと。
そうしたら次の一歩も踏み出せる。
そしてその歩みを止めなければ、きっと出逢うことができる。
諦めなかったからこそ如浄禅師という師に出逢うことのできた、道元禅師のように。
「我逢人」の「人」とは「本物」のこと。
そんなふうに感じることのできる相手との出逢いを指して、我逢人という。
人との出逢いから私たちは多くのことを学ぶ。
自分一人だけではどうしても限界があり、固定観念という枠を超えることも難しい。
出逢いは、その枠を超えさせてくれる。
「ついに出逢えた」という思いで「我、人と逢うなり」と訓読してみる。
なんとも味わい深い。