【禅語】自灯明(じとうみょう)
前回、法灯明という禅語についてご紹介した。
ブッダが亡くなる前に弟子たちに残した言葉である。
法灯明とは、要約すれば、真理、つまりは「本当に正しいこと」を頼りにして生きていきなさいという意味の禅語であった。
それは、何かを信じることではなく、何が本当かを見抜き、考え抜く生き方ともいえるものだった。
その法灯明という禅語とともに、ブッダはもう1つの言葉を弟子たちに残した。
それが自灯明。
この2つの禅語はいつもペアで語られることが多いので、ここでも続きにしてみたいと思う。
ブッダが残した自灯明の教え
自灯明とは、自分自身を頼りとして生きていきなさいという意味の禅語である。
自分自身を灯火として、先の見えない暗闇のような人生を歩いていきなさい。
ふいに停電した夜に灯すロウソクの明かりのように、頼るものが何もない場所でも、自分を頼りとすることで自分自身が明かりとなり暗闇を照らすことができるように。
もし自分以外の誰かを灯火として、誰かに前を照らしてもらって生きていたのでは、その誰かがいなくなり明かりが消えたとき、人は真っ暗闇のなかをさまようことになってしまう。
それは生き方として非常に危うい。
だから他に寄りかかるような生き方はするべきではないと、ブッダは人生の最期に言葉を残した。
永平寺の老杉
この自灯明という禅語について考えるとき、私はよく樹木をイメージする。
とりわけ、永平寺にそびえる老杉を。
樹はとても寿命の長い生物である。
何百年も、種類によってはそれこそ何千年も生き続けていく。
永平寺の山門の前には「五代杉(ごだいすぎ)」と呼ばれる老杉がそびえている。
永平寺の5代目の住職の時代に植えられた杉だから、五代杉という。
ちなみに五大杉の樹齢は700年ほどだとされているが、私が永平寺で修行をしていた時にその老杉のそばを通ると、年輪を重ねた太くたくましい幹に否が応でも目が向いてしまったものだった。
周囲の空気が澄んだものに感じられ、真っ直ぐに天を突く姿には神々しさすら覚えた。
その老杉は、地中に根をしっかりと張って自分の力で堂々と大地に立っていた。
自分を支えることができるのは自分だけ
しかしそのような立派な大木も、生まれたばかりのころはもちろん可愛らしい新芽だった。
風が吹けば倒れてしまいそうな、日照りが続けばすぐに枯れてしまいそうな。
何とも頼りなく弱々しい新芽からはじまったのである。どんな大木も。
そんな新芽が少しずつ大地に根を張り、葉を茂らせて幹を太くし背を伸ばしていく。
自分で自分を支え、700年という歳月をかけてあのような大木へと成長する。
そうした樹を見ると、自分自身を灯火として生きてきたのだなと、思わず感慨にふけってしまう。
それとは反対に、森に密集して生える樹には幹の細いものが多い。
周囲の樹を伐採すると、ぐにゃっと曲がってしまうものさえある。
周囲を伐採するまでは周囲の樹にもたれて生きているから倒れはしないが、それらがなくなった途端に倒れてしまう。
あのような木々は結局、自分の力で立っていたのではなかったのだろう。
周囲の樹にもたれかかって大きくなっていただけなのだ。
だから、もたれていた支えがなくなった途端に、自分を支えることができなくなってしまう。
自灯明という禅語が危惧しているのはそこである。
自分自身を灯火とせずに自分以外の何かを灯火としてしまうと、頼りにしていた灯火が消えた瞬間に自分を支えることができなくなってしまう。
それは、自分という人間が、本当には成長していなかったことをも意味する。
つまり自灯明とは、根を張り幹を太くし自立せよという教えなのである。
私(ブッダ)が亡くなっても、自分の足で世界に立っていなさいと、誰かにもたれかかるような生き方はやめなさいと、ブッダは言い残してこの世を去っていったのだった。
自分を支えるものは何か
禅では、本当に自分を支えることができるのは自分だけだと考えるが、世間ではむしろ、自分を支えるものは自分ではない「何か」と考えることが大半かもしれない。
たとえば、富や権力や名声。
それらによって自分を支えている人も少なくないだろう。
けれどもそういったものをふいに失った時、自分がぐにゃっと倒れてしまうようであれば、やはりそれは人として本当には成長していなかったことを意味するのだろう。
富や権力や名声といったつっかい棒に支えられて、ただ背だけを伸ばしてきただけのこと。
うわべばかりの成長、いや、それは「成長ではなかった」ことが露見してしまう。
外見だけ大人になったところで、自分を支える本当の力は外側からは見えない内側にある。
精神にこそある。
樹木を支えている根も、外側からは見えない。
だから外側ばかりを繕うと、いずれそのほころびが生じてくる。
富や権力や名声といった自分以外の支えを得て「大人になった」「偉くなった」と思い違いをすることは、じつはとても虚しいことなのではないだろうか。