【禅語】縁起(えんぎ)
縁起とは「縁(よ)りて起こる」ということ。
物事には何か必ず原因があって、それによって結果が起こるということ。
この「縁りて起こる」という縁起について、ちょっと深堀りしてみたい。
縁起の世間一般の意味
縁起という言葉にはいくつかの異なった意味がある。
まず、世間一般では「縁起を担ぐ」「縁起でもない」というような、吉凶や前兆を指す使い方が多い。
「受験に合格するように縁起を担いでカツカレーを食べた」とか、「病気が治らないかもしれないなんて、縁起でもないから言わないで」というような感じである。
それから、神社や寺院が建立された由来も、縁起とよぶことがある。
「お寺の縁起が記された古文書」というような使い方だ。
しかし禅(仏教)ではこの縁起という言葉を、「物事が起こる原因」というような意味合いで使っている。
そしてこれが縁起という言葉の本来の意味なのでもある。
サッカーと縁起
縁起が言うところの「物事が起こる原因」とはどういうことなのか。
サッカーを例に考えてみたい。
ある選手がシュートを蹴って、見事ボールがゴールネットに突きささったとする。
この「シュートが決まった」という出来事が起きた原因は何だろうか?
普通であれば、原因はシュートを放った人物、つまりボールを蹴った選手の蹴り方が上手だったことにあると考えるのではないか。
もちろん、それも大きな原因である。
主たる原因、あるいはメインの原因といってもいい。
しかし、よくよく考えてみればそのほかにも補助的な原因、要因というのはいくつもある。
パスが良かったのかもしれないし、相手が油断していたのかもしれないし、もしかしたら靴が良かったなんてことも。
縁起とは、メインの原因ではなく、むしろこうしたサブ的な要因のほうにこそ眼を向けた禅語なのである。
直接的な原因と間接的な原因
仏教では、直接的な原因を「因」、間接的な原因を「縁」と呼んで、原因の種類にも大きく分ければ二つあるという考え方をする。
そして縁起とは、物事が起きた要因のうち、間接的な原因をより重要視した言葉になる。
だから「因」ではなく「縁」によって起こる「縁起」と書く。
もう一度サッカーを題材にして考えてみよう。
ゴールが決まったサブ的な要因は何か。
これはどれだけでも挙げることができる。
- チームメイトがパスをつないでくれたから。
- 相手のキーパーがボールをとめることができなかったから。
- サポーターの応援によって燃えていたから。
- 朝ご飯を食べてエネルギーに満ちていたから。
- そもそもボールを作った職人がいたから。
どんな事柄であっても、それが少しでも関係していれば間接的な原因となりえる。
さらに間接的な原因に対する間接的な原因まで考えだしたら、それこそあらゆることが間接的な原因となることだろう。
大袈裟に言うなら、この世界に原因でないもの、まったく関係していないものなど存在しないとまで言えるかもしれない。
そして、この「原因でないものが存在しない」ということが、縁起という禅語に含まれるニュアンスとしはもっともふさわしいものだと私は考えている。
どんな結果であっても、1つの理由や原因から成り立っているものはない。
必ず細かな原因が関係し合っている。
世界は相互に関係し合い、相互に影響を与え合い受け合い、常に結果であり原因でもありつつ存在している。
だから禅では、物事はありとあらゆることが複雑に関係し合って起きているのだと考え、そのことを縁起という言葉で表現している。
「自分の力でシュートが決まった」などという考えは、広大な縁起の世界から眺めれば、じつに視野の狭い見方であると言わざるをえないというわけである。
何がために神に祈る
海外のサッカー選手で、ゴールが決まった際にユニフォームの内から十字架のネックレスを取り出して、神に感謝の祈りを捧げる姿をたまにテレビで見かけることがある。
私がまだ出家する以前、在家だった頃、まだ禅について何一つ知らなかった私はあの光景を見て、
「あの選手は神を信じているんだ。
神のおかげでゴールを決めることができたと考えているんだ」
というような想像をしていた。
あの姿こそまさに「信仰」を具現化したものだという印象を受けたものである。
それが禅僧となって縁起という考えを知ってから同じ光景をテレビで見たとき、以前とは異なる印象を受けるようになった。
神に感謝をするというのは、つまり自分の力だけでゴールできたのではないという思いの表れなのではないかと。
神というものを超越的な個としての存在ではなく、ずっとずっと広く大きな普遍的真理として捉えてみれば、あらゆる間接的な原因が関係しあってゴールが生まれたという、非常に謙虚な、大きな関係性への感謝の姿に見えてきたのである。
実際に選手がどう考えて十字を切るのかはわからない。
神様のおかげだと考えているのかもしれないし、もっと普遍的な「感謝」に近い感情から行われるものなのかもしれない。
それは傍から見る者にとってはわからないのだが、とにもかくにも、禅の考え方を知ってから眺める世界は、以前とは少し違う意味合いを含んだものとして眼に映るようになった。
それは私にとってちょっと嬉しい変化だったのである。
縁起の眼で見れば、あらゆる存在は「縁起という真理を説くため」にそこに存在しているのではないかとも感じられるようになった。
それは、在家の頃には考えも及ばない認識の世界だった。
禅の視点を得て、人生はずっと豊かになった。
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