眼の前にガラスのコップが置いてある。
そして、そのガラスのコップには水が半分入っている。
ちょうど上の写真のような感じで。
これをもとに禅語「知足」について考えてみたい。
【禅語】知足(ちそく)
器であるコップは人の心。
水は心の充足度。
つまりこのコップは、充足度50%といったところの心のあらわれ。
いわゆる「どちらともいえない」の位置である。
コップに水が満ちている状態が完全な充足であるから、心を満たすためには水を注ぎ入れる必要がある。
「心のコップに水を注ぐ」
もしかしたら人は、そのために生きているのかもしれない。
禅も、突き詰めていけば求めているのは心の充足。
あえて言葉にだして「充足を求めている」とは言わなくても、行為の源をたどっていけば、そこには必ず「幸せになりたい」という、言語化・意識化する以前の根源的な思いがある。
ブッダも自分のことを「世界で私ほど幸福を求めた者はいない」と言っていた。そのような言葉が仏典に残っているのである。
人は誰もが幸せを求めて生きている。
心の充足とは、この幸せのこと。
ただし、禅ではコップに水を注ぎ足すという方法は採らない。
水を注ぐことなく器に水を満たすのである。
どうやって……?
禅の考える幸せ
禅の考える幸せは、いたってシンプル。
キッチンから大さじを持ってきて、コップから水を一杯すくいとる。
きっかり15cc。
大さじ一杯の水を得て充足とする。
つまり水を増やすという発想ではなく、器を「大さじ」という小さなものに変えるのである。
2/1の状態を2/2にするのではなく、1/1にする。
どちらも結局は「1」、つまり完全な充足なのだから、充足度は何も変わらない。
しかし私たち人間という生き物は、なぜだか2/2の充足のほうがより幸せであると錯覚してしまう性分をそなえているもの。
そして、できるなら3/3、5/5、10/10でありたいと思い、次第に器を大きくし、ついに心はバスタブほどの大きさに。
それではいつまでたっても充足しないのは無理もないこと。
余計なものは捨て去り、不要なものは手に取らず、たえず風通しのよいシンプルな心であることに努める。
1/1の幸せとは、何かを我慢することではなく、余計なものを捨てて、本当に選ぶべきもの、大切にすべきものに意識を向ける生き方をいう。
たとえ貧乏であったとしても、その心が幸せであるなら、それ以上の幸せは存在しない。
幸せとは心が感じること以外の何ものでもないという、幸せというものの本質を知っているからこそ、禅の心は大さじで事足りるのである。
「もっと上の幸せがあるのではないか?」
そうやって他人と幸せを比べ合うことで、人は今ある幸せを見失ってしまう。
比較というフィルターを通した視線の先にあるのは、常に他人の姿であり、他人と自分との差異でしかないからである。
その眼に自分は映っていない。
肝心の自分自身に眼を向けていないのだ。
今、あなたの心にはどんな器が置かれているだろうか。
大さじ?
コップ?
それともバスタブ?
知足という、足るを知る幸せに、大きな器は無用である。