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【禅語】但だ般若を尊重す ~必要なのは学ぼうとする心だけ~

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但だ般若を尊重す

口では調子のいいことを言って、実際の行動は全然なってない。自分のことは棚の最上段に上げて、綺麗事ばかり口にする。


そのような「口だけ」と批判されるような人がいれば、仮にその人が話す言葉がどれだけ道理に適った素晴らしいものであったとしても、すんなりと聞き入れられるのは難しいことでしょう。むしろ「嘘つき」というイメージを持たれてしまい、軽蔑されてしまうかもしれません。


嫌いな相手や信用できない相手の話には聞く耳をもたないということが、私たちには往々にして起こることと思います。でも、禅の考え方はちょっと違うんですね。道元禅師は人の話を聞くにあたっての心構えとして、次の言葉を残しました。


但だ般若を尊重す


道理に適った素晴らしい言葉を話す人がいれば、その人の見た目や経歴や行動などに関係なく、ただその言葉を尊重して学ぶべきである。それがこの禅語の説くところというわけです。



「但だ般若を尊重す」という禅語は、道元禅師が著わした『修証義』(『正法眼蔵』)に登場する言葉で、原文は以下のような文章となっています。


「無上菩提を演説する師に値(あ)わんには、種姓(しゅしょう)を観ずること莫(なか)れ、容顔を見ること莫れ、非を嫌うこと莫れ、行いを考うるこ莫れ、但(ただ)般若を尊重(そんじゅう)す」


この原文を現代語訳すると、おおよそ次のようになります。


「真理について話をする人と出会い、その言葉から真実を学ぼうと思うなら、その人がどこの生まれであるとか、生い立ちがどうとか、外見がどうとか、そのようなことを問題にしてはならない。また、その人の欠点を批判したり、行動について是非を論じたりしてもいけない。ただその言葉から真実を学ぶことだけに重きを置くべきである


講演などで話を聞く際に、話し手の癖が気になってしまってどうにも話に集中できなかったという経験はありませんか。口調や声の大きさ、ボディランゲージ、イントネーション、滑舌など、挙げようと思えば話し手の特徴はいくつもあります。そのような特徴の何か1つでも気になることがあると、そればっかりが気になってしまい話の内容が頭に入ってこないということもあります。


あるいは、話し手の容姿や年齢や経歴といったもので相手を値踏みし、「自分よりも若造の言うことなんて聞かない」とか、話の内容以前のところで壁を作ってしまうということもなかにはあるでしょう。早い話が、嫌いな人の話は聞かないという姿勢です。


心理としてはわからないこともありませんが、道元禅師はそうした姿勢を明確に否定しました。話を聞いて学ぼうとする者が、話をする側に注文をつけるのはお門違い。仮にどれだけ態度の悪い話し手であっても、聞く側に学びたいという志しがあるなら、相手がどんな人物でも関係なく学ぶことができるはず。それこそ、石や草木といった自然物からさえも学べるはずだと。


道元禅師に言わせれば、相手の人物が気に入らないから話を聞く気になれないなどというのは、本気で学ぼうとしない者の戯れ言にすぎない、といったところでしょうか。


教えを学ぶということは、「自分が学ぶ」ことにおいて完結しています。相手の素行が悪いのだとしたら、それは相手が改善していくべきことで、自分の学びとは関係がありません。自分はただ学ぶことに徹すればいい。それが自力を説く禅の教えであり、道元禅師の考え方でした。


まあ、口だけではなく行動がともなうほうが良いのは当然ですが、何かもっともらしい理由をつけて学ばないことを正当化するなということです。学ばないのは相手の責任ではなく、100%自分の責任だということ。その事実から目をそらすなよという、警告の禅語です。