【禅語】眼横鼻直 ~道元禅師の「問い」と「答え」~
日本曹洞宗の開祖であり、永平寺を開いた道元禅師。そんな道元禅師は8歳で母親を亡くすという悲しみに遭い、13歳という若さで意を決して比叡山に上り、出家した。
当時、仏教界最高峰の学問所でもあった比叡山で天台宗の教えを中心に仏教を学ぶ日々を過ごした道元禅師は、ある日、経典のなかに出てくる言葉に疑問を抱く。
「本来本法性 天然自性身」
「人は生まれながらにして仏そのものである」
およそそのような意味の言葉と出会い、道元禅師は困惑した。
仏とは何か 修行とは何か
道元禅師の伝記である『建撕記』には、その時の道元禅師の思いが次のように記されている。
「顕密二教ともに談ず。本来本法性、天然自性身と。若しかくの如くならば、三世の諸仏、甚によってか更に発心して菩提を求むるや」
顕教でも密教でも、本来本法性、天然自性身ということが言われている。しかし、もし本当に人が生まれながらにして仏だというのなら、なぜ歴代の祖師方はさらに心を発こして仏法を求め仏になろうと修行を重ねたのか。
それが道元禅師の抱いた疑問だった。
人が生まれながらにして仏であるというのなら、修行などしなくても仏ということになる。だとすれば修行などする必要がなくなる。しかし実際には、歴代の祖師方は決して修行を怠らなかった。これは一体どういうことなのか……。その答えがどうしてもわからなかった。
道元禅師はこの疑問を解決すべく、様々な人物にこの質問をぶつけた。しかし納得のできる言葉を返してくれる人は一人もいなかった。そして最終的に、他人の言葉に答えを求めても駄目で、この疑問を解決するには自分自身で海を渡って本場中国へ赴き、直接仏法を学んで自分で納得するしかないと考えるようになる。
そして1223年、道元禅師は24歳の時に中国(宋)へと旅立った。
中国において各地を遍歴し師と呼べる人物を探すも、そのような人物とはなかなか巡り合うことができなかった。2年が経ち、やがて禅師の心に諦めの気持ちが生じはじめた。
帰国を考えはじめた道元禅師であったが、偶然にも天童山に新しい住職がやってくるという話を耳にし、帰国をやめて最後の望みをかけて天童山に向かうことにする。そして、如浄禅師という真の禅僧と出会うことになるのだった。
如浄禅師のもとで修行を重ねた結果、道元禅師は身心脱落の境地にいたった。つまり真理を悟った。そしてその悟りが間違いのないものであると如浄禅師から認められ、道元禅師は如浄禅師の仏法を受け嗣いだ。
1227年、28歳になって道元禅師は日本へ帰国をする。中国で過ごした時間は約5年にも及んだ。
道元禅師の「答え」
『永平広録』には、道元禅師が帰国した後の思いが次のように記されている。
「等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞ぜられず、便乃ち空手にして郷に還る。所以に一毫も仏法無く、任運に且く時を延ぶ。朝朝日は東より出で、夜夜月は西に沈む」
偶然にも如浄禅師という本物の師と出会うことができ、そのもとで修行を重ねて、眼は横に並び鼻は縦に顔に付いていることを体得した。もう人の言葉に惑わされることもない。だから私は何も持たずに日本へと帰ってきた。本場中国にも、あえて仏法と呼ぶような教えがあるわけではなく、ただしばらく時間を過ごしただけだ。私が学んだことが何かというならば、それはたとえば、太陽は朝に東から昇り、夜に西に沈んでいくということだ。
そのような意味の言葉である。
比叡山で抱いた道元禅師の問い。
「本来本法性 天然自性身」
それに対する答え。
「眼は横に並び鼻は縦に顔に付いていること」
「太陽は朝に東から昇り、夜に西に沈んでいくということ」
「眼横鼻直」という禅語が示すのは、この心なのである。
特別なことが仏法なのではない。当たり前のことなのだ。大切なことというのは。遠くにある「ありがたい教え」を妄想するのではなく、足元にある「今すべきこと」に意識を向ける。
今、仏として生きる。
「正答」があるのではなく、それが自分にとっての「答え」なのだと、道元禅師は言っているように感じられる。
「仏とは何か」
「修行とは何か」
そこから始まった道元禅師の求道の歩みは、自分自身で答えを確かめるという方法によって、決着をみた。「もう人の言葉に惑わされることもない」とする道元禅師の言葉には、学びの姿勢において最も大切な心構えが表現されているようにも思える。自分で体験して納得する、という心構えが。
あまりにも単純すぎる禅語「眼横鼻直」ではあるが、だからこそ究極的に奥深い。この禅語は、道元禅師が中国において悟った「答え」を端的に指し示す言葉なのである。