小池龍之介「解脱失敗とその懺悔」について思うこと
興味深い記事を読んだ。
株式会社サンガが運営をしているブログで、2019年3月18日付で掲載された下の記事。
解脱失敗とその懺悔――小池龍之介さんからの電話 -samgha-
僧侶であり作家でもある小池龍之介氏からサンガ本社へ電話があり、「瞑想修行の旅に出たが解脱に至ることができなかった」ことの報告と、そのお詫びを受けたという内容の記事だった。
解脱への旅
2018年秋頃から解脱を意識しはじめた小池氏は、遊行の旅における瞑想によって完全な解脱に至ることを考えた。
そして実際に寺を出て、雲の如く水の如く遊行生活(野宿生活)へと入っていった。
しかし2019年3月に至り、遊行生活を断念した。
その理由を、小池氏は次のように語ったという。
「旅に出たものの、野宿を続けて、過酷な状況に追い込まれていくなかで、ほぼ消滅していると思っていた自分の弱さや辛さに直面することになりました。
最初の頃は、その困難な状況を観察していられたのですが、瞑想ができないと、悲しみがたくさん出てくるような状態になってしまいました。
瞑想ができないので、その悲しみの中に埋没してしまい、大粒の涙がポロポロと落ちることもありました。
このような苦しみを経験するにつれて、旅に出る前は90%ぐらいにまで修行が進んでいると思い、『もうすぐ解脱をする』と伝えてしまったのですが、自分が置かれている境地が、自分で認識していたよりもずっと低いんだということが実によく分かりました」
悟りとは「境地」なのか
告白にも似た文章を読んで、私は複雑な思いに駆られた。
なんというか、小池氏の真っ直ぐで正直な精神と、挫折の痛み悔やみと、悟りに対する違和感と、雨上がりに差す一筋の光明のような希望とが混じり合って頭になだれ込んできたようで、考えを1つにまとめることができずに、しばし天井を見上げながら呆然としてしまった。
何から考えればいいのか。
まずは、やはり、告白のテーマでもある「悟り」だろうか。
一般の方からすると意外に思われるかもしれないが、悟りや解脱といったものに対する仏教の解釈は、1つではない。
悟りというものをどう考えるかは、宗派や個人によってだいぶ異なる。
おそらく世間一般的に考えられている「悟り」というのは、要するに「とんでもない境地」のようなものではないだろうか。
その境地に到ればあらゆる苦悩から解き放たれ、完全に「悟りの人」となる。
そのような境地を指して「悟り」と呼ぶのだと、そんな認識でおられるのではないかと察する。
要するにそこでいう悟りとは、「成る」とか「開く」ものという発想である。
小池氏にとっての悟りも、おそらくはこれに類するものだと思う。
一方で、たとえば禅(曹洞)が考える「悟り」はそうではない。
「修証一如」や「修証不二」といった言葉で表現されるように、禅では修行を離れて悟りはないと考える。
修行をするそのなかにこそ悟りがある。
よりはっきりと言ってしまえば、修行をする姿そのものが悟りの姿なのだと。
仏として生きることを指して修行と呼び、その修行に励む者を指して仏と呼ぶ。
だから修行と悟りはどちらか一方だけで成立するものではなく、同じものをどの角度から見るかの違いでしかない。
したがってそこでは、仏とは「成る」ものでも「開く」ものでもなく、「行じる」ものだと言ったほうが適切となる。
これが道元禅師が説いた曹洞禅の修行と悟りの関係である。
修行と悟りの間に不可逆地点は存在せず、両者は別物ですらないという発想だ。
悟りはゴールなのか
小池氏の言葉のなかで特に印象的だったものの1つに、修行の進度を%で表現したことが挙げられる。
「佐藤さんと初めて会ったとき、修行の完成度が28点ぐらいだとしたら、実際、現在はまだ30点ぐらいだということが分かりました。
それほどゆっくりとしてしか進んでいないのに、旅に出る直前は90点ぐらいに到達していると思い込んでいました」
このような述懐は、少なくとも曹洞禅ではありえない。
強いて%で表現をするなら、100%か0%か、どちらかであるといったふうにしか表現することができないためである。
「今、仏として生きているかどうか」がすべてであるから、進度という認識はないのだ。
今、仏として生きているから仏なのであり、今、修羅として生きているから修羅なのであり、今、畜生として生きているから畜生なのだという、「今何をして生きているか」以外に自分が何者かを示す基準など存在しない。
そして、そうであれば修行に進度はなく、今、仏として生きているか、生きていないかの二択、つまりは100か0かという以外に%の持ち出しようがなくなる。
どれだけ進んだか、どれだけ近づいたかではなく、今何をしているか。
問題なのはゴールまでの距離ではなく、その道を今どのように進んでいるか。
畢竟、どう生きているか。
そこではないか。
魔境
小池氏は次のようにも言っている。
「解脱に近づいていることを、書籍をはじめ様々な媒体で言ってきましたが、それは修行者が陥りがちな『魔境』のような状態で、自分がもうすぐ解脱できるという妄想になっていたようです」
魔境。
驕り、自惚れ、過信、思い込み。
おそらくはそういった意味の言葉なのだと思われる。
ただ、小池氏の言う魔境が、悟りはほど遠いのにもう悟りに近いと思い込んでしまうことなのだとしたら、禅でいう魔境は、悟りをそのように捉えることそのものを指すようにも思える。
得られる。 得られない。
成れる。 成れない。
開ける。 開けられない。
悟りというものを相対的に捉え、実体視するかのような発想自体が、一種の魔境なのではないか。
執着するかぎり、悟りさえも毒となる。
魔境とはそういったものではないだろうか。
恥を知る
小池氏の告白を読んだとき、思い出す言葉があった。
中国臨済宗中興の祖とも呼ばれる、五祖法演禅師の言葉である。
「吾、参ずること二十年、今まさに羞を識る」
禅に参じること20年。
永きにわたって禅の世界に身を置き修行を続けてきた法演禅師の、20年という歳月の末に出た言葉は
「ようやく自分の至らなさに気が付いた」
だった。
なんとも重たい言葉である。
20年かけた末の言葉が「自分の至らなさに気が付いた」だったというのは。
しかしながら、「至らなさに気が付いた」とは、本当に大切なものに気付いたことの裏返しでもあるはず。
その感覚を、小池氏の言葉にも感じた。
「私は還俗し、仏教のお坊さんであるということそのものをやめようと思いました。
瞑想指導者であるとか、お坊さんであるとかいうことをやめて、一人の人間として、しっかり瞑想をしながら、生きていこうと思っています」
この再スタートは、小池氏にとって極めて重要な指針の転換なのではないか。
ちょうど法演禅師が「羞を識る」と吐露したように、自分のもっとも見たくないところに向き合った末の言葉なのではないか。
小池氏の言葉を一読すると、それは挫折と解釈できる内容であるが、それでも記事を読み終えたあとには一種の安息のようなものを感じる。
意外にも心は安らいでいるようにも思える。
瞑想によって至る境地に、小池氏の求める悟りが本当に存在するのか、それはわからない。
わからないからこそ、いつの日かその真っ直ぐな精神でもう一度思いの丈を発信してほしいと願う人は、きっとこの世界に大勢いる。
私もその1人である。