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陀羅尼とは呪文のようなお経 ~言葉に力が宿る神秘の経文~

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陀羅尼とは呪文のようなお経 ~言葉に力が宿る神秘の経文~

仏教経典、いわゆる「お経」には、様々な種類のものがある。
それらの多くは仏の教えを文字で記したものであって、いわば仏教を学ぶための教科書のような書物となっている。
漢字の羅列や難解な言葉、古い語体などによって呪文のように聞こえることもあるが、内容に目を向ければ学ぶべき教えがきちんと説かれている。


しかし中には、意味内容よりもお経そのものを唱えることのほうが重視されるような、一風変わったお経もある。
まさに呪文のようなお経だ。
それが陀羅尼(ダラニ)と呼ばれる経典類である。


陀羅尼とは

陀羅尼とは、サンスクリット語の「ダーラニー」という言葉を音訳したもの。
つまり「ダ」と「ラ」と「ニ」の発音をする漢字を当てはめた結果が「陀羅尼」であり、したがって漢字には何の意味もない。
単純に発音が似ていたからこの三文字が使われているだけである。


ダーラニーの原意は「記憶する」「忘れない」といったもので、それは当初お経に限られたものではなかった。
暗記や習得といった形で記憶すべきことをダーラニーと呼んでいたのが、やがてそのように覚える一部のお経に対してもダーラニーという言葉が使われるようになり、いつしかダーラニーといえば一部のお経のほうを指すようになっていったと考えられている。


それで、ダーラニーという言葉の意味であるが、これは日本語では「総持」とか「能遮」と意訳されることが多い。
「総持」とは「総て持つ」ということで、ダーラニーの丸暗記という意味を表している
一方「能遮」とは雑念や妄想を遮断する意味であるが、これは陀羅尼を唱えることで無念無想の境地を保とうとするダーラニーの目的を意訳した結果である。


つまり陀羅尼とは暗記した語句を繰り返し繰り返し唱えることで、雑念から離れることを目的としたお経なのだ。

陀羅尼,音訳,意訳

陀羅尼の目的と記述内容

陀羅尼の目的は、前述のように繰り返し唱える経文に没頭する点にある。
したがって陀羅尼経典は、その経文の内容に教学的な要素を含める必要がなかった
仏教を学ぶために存在する経典ではないのである。陀羅尼という経典は。


では陀羅尼経典には何が書かれているのかというと、神仏や菩薩を讃歎する言葉や、願いの成就を求めるような言葉が列記されている場合が多い
教科書としての経典ではなく、呪文的な経典と表現したほうが陀羅尼経典には相応しいと言われる所以は、ここにある。
陀羅尼とは、読誦すること自体が祈祷のような経典なのだ。


このように、意味を理解することを目的とせず、ただ唱えることに没頭することこそが重要であった陀羅尼経典は、中国に伝わっても意訳されることはなかった。
いや、むしろ意訳すべきではないと考えられた。


意味を訳してしまうと、読んでいるうちに経文の意味が頭に入ってきてしまい、没頭という点から考えて不適切だからである。
だからサンスクリット語のままの発音で、表記だけを漢字に改めるよう音訳された。
あえて意味をわからなくしたのである。


こうなると当然、陀羅尼は聞き慣れない言語で唱える不思議なお経として人々に知られるようになり、その神秘的な音の響きから、呪術的な経文、呪文のような経典であると理解されていった
そして現代においても陀羅尼は呪術的な経典として位置付けられ、やはりと言うべきか、その意味内容が説かれることはほぼない。


陀羅尼,訳さない理由

不翻の五義

言葉の意味を訳すことなく、もとの発音のままに唱えることが維持された陀羅尼には、言葉自体に力が宿っているのだという考え方がある。
そうした考えの根拠となっているのが、いわゆる「不翻の五義」とよばれる、陀羅尼の意味を訳さない5つの理由である。


不翻の五義とは、具体的には以下の5つをいう。

  1. 陀羅尼は、ブッダをはじめ諸仏が話していた言葉そのものであるから、これを真に理解できるのは仏同士だけであり、人知の及ぶところではないから訳すことができない
  2. 原語には多様な意味が含まれており、たとえ1つの言葉であっても多義であるため、何か1つの言葉に訳してしまうと他義を失ってしまう
  3. 陀羅尼には神仏の名前が多く記されており、これを訳すことはそもそもできない
  4. 陀羅尼には諸仏の神秘の力が宿っているから、訳してしまうとその力が失われる
  5. 陀羅尼を唱えるということは、神仏の力を自身に宿すためであり、ひたすらに唱え続けて加護を得ることに専念すればいい


以上の「不翻の五義」と呼ばれる、意味を訳してはいけない5つの理由が陀羅尼には存在するため、陀羅尼経典は現代でも古代インド原語の発音のままに唱え続けられている。


禅宗でよく唱えられる陀羅尼

陀羅尼という経典の性格を考えたとき、呪術的な経典であるから自力の禅の思想とは相容れないところが多いと、普通は考えられる。
しかし面白いことに、実際には禅宗でも陀羅尼経典はよく読まれている


たとえば禅・曹洞宗では、陀羅尼経典である『大悲心陀羅尼』を毎日のように読むし、ほかにも『消災妙吉祥陀羅尼』というお経も比較的よく読まれる。
また、施食会でよく読まれる『甘露門』にも陀羅尼が多く登場する。
曹洞宗の大本山である永平寺では、昼の勤行で『仏頂尊勝陀羅尼』が読まれているし、時期によっては『楞厳呪』というお経もよく読まれる。


禅宗であっても、陀羅尼経典は身近なお経として読まれている。

大悲心陀羅尼

最後に、陀羅尼経典として曹洞宗でもっともよく読まれる『大悲心陀羅尼』の全文を掲載しておきたい。
音訳のためだけに綴られた見慣れない漢字の連続と、不思議な発音のルビをご覧いただくだけで、多少なり陀羅尼経典の呪術性が伝わるのではないかと思う。

大悲心陀羅尼(全文)

南無喝囉なむから怛那たんのう 哆羅夜耶 と ら やーやー
南無阿唎耶 な む お り やー 婆盧羯帝 ぼ りょきーちい 爍鉗囉耶 し ふ らーやー 菩提薩埵婆耶 ふ じ さ と ぼーやー 摩訶薩埵婆耶 も こ さ と ぼーやー 摩訶迦盧尼迦耶もーこーきゃーるにきゃーやー 
えん 薩皤囉罰曳さー は ら はーえい 數怛那怛寫しゅーたんのうとんしゃー 
南無悉吉利埵伊蒙 な む し き りー と い もー 阿唎耶婆盧吉帝 お り やー ぼ りょきーちい  室佛囉楞馱婆 し ふ らーりんとーぼー 
南無那囉謹墀なーむーのーらーきんじー  醯唎摩訶皤哷きーりーもーこーほーどー 沙咩薩婆しゃーみーさーぼー  阿他豆輸朋おーとうじょーしゅうべん  阿遊孕おーしゅーいん 薩婆薩哷さーぼーさーとー 那摩婆伽のーも-ぼーぎゃー  摩罰特豆 もーはーてーちょー  怛姪他とーじーとー 
えん  阿婆盧醯 おーぼーりょーきー  盧迦帝るーぎゃーちい  迦羅帝きゃーらーちい  夷醯唎いー き り   
摩訶菩提薩埵もーこー ふ じ さーとー  薩婆薩婆さーぼーさーぼー 摩囉摩囉もーらーもーらー  摩醯摩醯もーきーもーきー 唎馱孕りーとーいん  俱盧俱盧くーりょーくーりょー 羯蒙けーもー  度盧度盧 とーりょーとーりょー 
罰闍耶帝ほーじゃーやーちい 摩訶罰闍耶帝もーこーほーじゃーやーちい  陀囉陀囉とーらーとーらー  地利尼 ち り にー  室佛囉耶 し ふ らーやー  遮囉遮囉しゃーろーしゃーろー   摩摩罰摩囉もーもーはーもーらー  穆帝隸 ほーちいりー 伊醯伊醯ゆーきーゆーきー  室那室那しーのーしーのー 
阿囉參 お ら さん佛囉舍利 ふ ら しゃーりー  罰沙罰參はーざーはーざん  佛囉舍耶 ふ ら しゃーやー  呼盧呼盧摩囉呼盧呼盧醯利くーりょ-くーりょーもーらーくーりょーくーりょーきーりー  娑囉娑囉しゃーろーしゃーろー  悉利悉利しーりーしーりー  蘇嚧蘇嚧 すーりょーすーりょー  菩提夜菩提夜 ふ じ やーふ じ やー  菩馱夜菩馱夜 ふ ど やーふ ど やー  彌帝唎夜みー ち り やー 
那囉謹墀 の ら きんじー  地利瑟尼那 ち り しゅ に のー  婆夜摩那 ほ や も の   娑婆訶 そ も こー 
悉陀夜 し ど やー  娑婆訶 そ も こー 
摩訶悉陀夜 も こ し ど やー  娑婆訶 そ も こー 
悉陀喻藝 し ど ゆーきー  室皤囉夜 し ふ らーやー  娑婆訶 そ も こー 
那囉謹墀 の ら きんじー  娑婆訶 そ も こー 
摩囉那囉もーらーのーらー  娑婆訶 そ も こー 
悉囉しら僧阿穆佉耶すー お も ぎゃーやー  娑婆訶 そ も こー 
娑婆摩訶悉陀夜 そ ぼ も こ し ど やー  娑婆訶 そ も こー 
者吉囉阿悉陀夜 しゃ き らー お し どーやー  娑婆訶 そ も こー 
波陀摩羯悉陀夜 ほ ど も ぎゃ し ど やー  娑婆訶 そ も こー 
那囉謹墀 の ら きんじー 皤伽囉耶はーぎゃ ら やー  娑婆訶 そ も こー 
摩婆唎勝羯囉耶もー ほ り しんぎゃ ら やー  娑婆訶 そ も こー 
南無喝囉怛那哆羅夜耶 な む か ら たんのー と ら やーやー 
南無阿唎耶 な む お り やー  婆盧吉帝 ぼ りょきーちい  爍皤囉耶 し ふ らーやー  娑婆訶 そ も こー 
悉殿都 し て どー  漫哆囉 も ど らー 跋陀耶 ほ ど やー  娑婆訶 そ も こー 
大悲心陀羅尼,お経