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正念場は仏教用語? 歌舞伎用語? マインドフルネスとの意外な関係

正念場,意味

正念場は仏教用語? 歌舞伎用語? マインドフルネスとの意外な関係

「大関昇進を懸け、今日が正念場となる一番です!」
「新製品の開発が成功するかどうか、ここが正念場だ!」
「一進一退の局面、まさに正念場をむかえております!」
などなど。


「正念場」という言葉は日常生活のなかで稀に耳にする、さらりと使うことができるとちょっとカッコイイ響きの言葉。
「重要」でも代用できるが、ありふれている「重要」では重要感というか特別感のようなものがどうしても劣る。


普通な印象におさまってしまってはもったいないようなここぞという時には「正念場」を使ってみると、よりクライマックス的な雰囲気が出ていい。
「度肝を抜かれる」と同じくらい、一度は使ってみたい言葉だ。


そんな正念場という言葉は、もちろん「物事の最も重要な局面」を意味する言葉である。
そしてこの正念という言葉は、じつは仏教用語なのでもある。


仏教用語か? 歌舞伎用語か?

正念場は仏教から生まれた言葉だというと、もしかしたら歌舞伎界からクレームが入るかもしれない。


「正念場っていうのはですね、歌舞伎や浄瑠璃で主人公がその役の本質的性格(性根)を発揮させる最も重要な場面を意味する言葉なんですよ。
だから正念場は歌舞伎や浄瑠璃から生まれた言葉であって、仏教から生まれた言葉ではありません!」
と。


正念場は歌舞伎の言葉


うーん、まあ、そう。
それはそうなのだ。
たしかに正念場は歌舞伎なのだが、正念は仏教なのである。
だからちょっとややこしい。


ちなみに歌舞伎では正念場のことを「性根場」(しょうねば)ともいうらしい。
しかしこの「性根」も、じつはもともとは仏教の用語なのである。
仏教では「性根」(しょうこん)と読むが、これは同じく仏教用語の「根性」と同じ意味で、人の気質・性格・理解力などを意味する言葉である。


正念の意味については詳しく後述するが、とにかく正念も性根も仏教用語であるので、正念場という言葉が歌舞伎から生まれたといわれると、仏教側としてはちょっと引っかかるものがある。


ただ、「正念」ではなく、あくまでも「正念場」という「場」も入れての言葉で主張されるのであれば、たしかに歌舞伎から生まれた言葉と言える。
仏教に正念という言葉はあるが、正念場という言葉は出てこない


つまり、仏教用語としての正念あるいは性根が歌舞伎のセリフとして使用され、そこから正念場や性根場という言葉が生まれたという流れが、実際のところなのだと思われる。
これなら納得できる。


正念場の親戚「修羅場」

同様のことがほかの言葉にもいえる。
たとえば「修羅場」。


「修羅場」も浄瑠璃や歌舞伎から生まれた言葉であり、正念場とまったく同じで、仏教用語で「闘争」を意味する「修羅」という言葉が歌舞伎に取り入れられ、修羅場という言葉が生まれた
修羅という言葉はあくまでも仏教用語だが、修羅場は歌舞伎から生まれた言葉というわけだ。


正念場も修羅場も、仏教用語に「場」を足して生まれた言葉なのだから、純粋に歌舞伎から生まれた言葉とするのは少々強引なように思う。
しかし「場」も含めた言葉となると、これはこれで仏教用語とも言えなくなる。
なのでここは1つ、仏教と歌舞伎の合作ということで語源問題を鎮静化するのはいかがだろうか。


正念の意味

それで、ようやく本題に入るが、正念とはブッダの教え(仏教)の中核に位置する「八正道はっしょうどう」のなかの項目の1つである。


八正道とは、人が安らかな心で日々生きていくための具体的な8つの方法のことで、これを行じて生きていくことで人は苦から離れることができるとブッダは説いた。
安らぎにいたる「八つの正しい道」が八正道というわけである。

八正道

ブッダが説いた八正道は、以下の8つ。

  1. 正見しょうけん(見解)
  2. 正思惟しょうしゆい(思考)
  3. 正語しょうご(言葉)
  4. 正業しょうごう(行為)
  5. 正命しょうみょう(生活)
  6. 正精進しょうしょうじん(努力)
  7. 正念しょうねん( ? )
  8. 正定しょうじょう(瞑想)


八正道についてはだいたいどのよう本でも、上の(  )内のような訳し方がなされている。
この8つの項目を正しいものにしていくことが、安らかに生きる道というわけである。


しかし、この8つの項目のなかで、訳が人によってバラバラな項目が1つだけある。
それが正念。


面白いことに、正念だけは人によって訳し方が様々であり、それだけに何と訳すのがもっとも適しているのかよくわからないという方もいらっしゃるのではないかと思う。
よく目にするのは、「思考」「思念」「思索」「信念」「心」「意識」「注意」「記憶」「留意」「思慮」「不忘」あたりだろうか。

正念の訳

「念」の意味

正念を訳すときに重要となるのは、そもそも「念」が何の訳なのかということ。
「念」がすでに漢訳であるため、訳した後の「念」から連想してしまっては大元の言葉と意味が離れてしまう。
そのため「念」のもとになった言葉から適する熟語を考えなければいけない。


で、「念」のもとになっている言葉は何かということが問題になるが、これはパーリ語のサティ(sati)という言葉。
サティとは、「意識が注がれている状態」を意味した言葉だ。
これを中国では漢字で「念」と訳したわけだが、正直言って「念」ではまったく意味がわからない。


正念とマインドフルネス

「念」の原意である「意識が注がれている状態」は、近年「マインドフルネス」と呼ばれている。
坐禅や瞑想と何が違うのかと話題になることがある、あのマインドフルネスである。


マインドフルネスとはマインドフルネスのことで、つまり「意識が常に注がれている状態」がマインドフルネスである。
よくわからないという方は、下の記事をどうぞ。
www.zen-essay.com


このマインドフルネスに関連してよく用いられるのが「気づき」という言葉。
これは、「マインドフルネス」という言葉では何を意味した言葉なのかがわかりにくいということで、「マインドフルネス」を日本語に訳したものである。
「気づき」とは「気づいている状態」というほどの意味で、つまりが「意識が注がれている状態」のこと。

つまり、


正念=サティ=マインドフルネス=気づき


という等式関係が成り立つというわけだ。
したがって正念を「気づき」と訳す人もいる。

マインドフルネス

正念の訳は「気づき」でいいの?

たしかにサティを「気づき」と訳すことに大きな問題はないかもしれない。
「今、自分に起こっているあらゆる事柄に意識を注ぎ、常に気づいている状態」がサティであり、それを簡略にまとめれば「気づき」となるいうのは妥当な訳であるように思う。


しかし、仏教に関するそれなりの知識があって「気づき」と言われれば何となく理解できるかもしれないが、事前知識なしで「気づき」と言われても、何を言っているのかサッパリわからんというのがオチではないか。
訳は可能な限り簡潔明瞭であるべきもの。
「気づき」は簡潔ではあるが、どう考えたって意味が明瞭でない。


それと、八正道のほかの7つがすべて熟語で説明されているのに、正念だけが「気づき」という仮名交じりであるのも、いかにも不揃いでスマートさに欠ける。
本質的な問題ではないかもしれないが、やはりここまできたら正念にも熟語を当てたい



※冗談です

正念と正定の関係

正念を説明するのにぴったりの熟語は何かを探るために、ちょっと視点を変えて、八正道の8番目の「正定」との関係から考えてみたい。


ブッダが八正道の最後に示した「正定」とは、深い瞑想状態を意味している。
そしてこの瞑想に至るには、精神を統一させて意識を集中させる必要がある。


そこで意識を集中させる行程と、集中しきった状態とを別々の項目に区別して考え、前者を「正念」、後者を「正定」とブッダは定めた。
これが八正道の7つ目「正念」と、8つ目「正定」である。


正念とは、言わば正定にいたるための精神状態を指した言葉であり、単純に考えれば意識を集中させることを意味している
なので熟語で訳すとすれば、意識を注ぐという意味での「注意」、精神の「集中」あたりが適訳ではないかと考えられる。


ただし「注意」は、一般的には「指摘」の意味で用いられる言葉なので、なかなか意図したとおりに理解してもらえるか不安が大きい。
というか理解してもらうことはほぼ無理だろう。


そのことを考えると、最適は「集中」になるのではないか。
「集中」は意識が注がれている状態を意味するし、誰が読んでも一発で理解できる
簡潔であり明瞭。


よし、とりあえずサティ(念)の訳は、

「集中」

にしよう。

集中

中村元博士の見解

このサティという言葉について、中村元博士が非常に興味深い例を示している。
『ブッダ最後の旅』(岩波書店)の訳注(第1章、22)に記載されているのだが、以下に引用したい。

satiは「心にとどめる」「よく気をつける」「心が落ち着いている」というほどの意味である。
例えば、セイロンで小僧が心をとり乱して、あわてて茶碗をわったりすると、師僧は”sati! sati!”(落ち着いて!)といって戒める。
ー 中略 ー
この語を漢訳では伝統的に「念」と訳し、日本の仏教学界はそれにならっているが、いまの日本語で「念じて」というのとは少しく意味合いを異にする。

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「正念 = 集中」 ⇔ 「失念 = 散漫」

サティ(正念)の反対は意識が散漫な状態であり、これを「失念」という
正念を失った状態だから失念。
「集中」の対義語が「散漫」であることを考慮しても、集中がサティの適訳と言ってよいのではないだろうか。


上述の中村博士の例で、茶碗を割った小僧を「サティ!」と注意するのは、小僧の意識が散漫であったことに対するものであり、「しっかり集中しなさい」と解釈するのが妥当だろう。
サティの言葉の全てを「集中」と訳すことが適当とは言わないが、あえて1つ、代表として訳語を出すとしたら、私は「集中」だと考える。

失念しておりました

ちなみ、うっかり忘れていたことをちょっとカッコよく装って、ミスの程度を3割くらい減らそうという目論みの際に用いられる「失念しておりました」という言い回しは、早い話が「注意散漫でど忘れしてました」という意味である。


失念と言われると、ただ忘れていたのではないような大人の雰囲気が醸し出されるが、出ているのはあくまでも雰囲気だけなので実際に使用する場合には注意が必要だ(笑)


失念しておりました