精進料理は菜食を意味するのではない ~仏教における肉食の解釈~
「精進料理」といえば、普通「肉類を使用していない野菜中心の料理」を思い浮かべませんか?
いわゆる菜食のことだと。
精進とは、菜食の別名のようなものだと。
実際、辞書で「精進」を引いてみると「肉食せずに菜食すること」とあるくらいですので、「精進=菜食」という認識は間違いではないのでしょう。
けれども、仏教的な立場からすればやはり、それは正しいとも言えません。
それというのも、辞書に書かれている「肉食せずに菜食すること」という意味は、精進という言葉の2番目の意味となっており、1番目ではありません。
では1番目にはどのような意味が書かれているかというと、こう書いてあります。
「修行に励むこと」
そう、精進という言葉の意味は「修行に励む」なのです。
精進とは「修行に励む」という意味
修行に励む
精進という言葉の原義は「勇気」であり、仏教一般では「正しく仏道を歩む」ことを表す言葉として使われています。
要するに精進とは、修行の意味なのです。
したがって精進料理とは、仏道修行をする者に対して施される、励ましの意を込めた食事を指しているのであって、必ずしも肉類を避けた野菜中心の料理を指しているわけではありません。
修行者に施す食事が精進料理なのです。
精進のための食事が「精進料理」
肉食と不殺生戒
しかしながら、仏道修行に精進するということは戒律を守るということでもあり、戒律の第一には不殺生戒があります。
不殺生戒とは、生き物を殺さないこと。
だから修行者に施される食事は自ずと肉類を避けたものになりがちになり、結果、精進(修行)のための食事は菜食中心となることが多い。
つまり、結果的に、精進のために施される料理は菜食になりがちなのです。
こうしたことから、精進料理という名前と菜食はワンセットであるかのように思われるようになり、精進料理とは菜食を意味するのだという認識が定着してしまいました。
精進=菜食という認識がまったくの間違いであるというわけではないのですが、上記のような過程を考慮すれば、精進と菜食は間接的に関係するものであり、直接イコールとしてつなげてしまうのはやはり正しいとは言えません。
精進とはあくまでも「修行」という意味だからです。
結果的に精進料理は菜食になりがち
仏教では肉食を禁じていなかった?
肉食する僧侶に対して「生臭坊主」と批判的な言葉が投げ掛けられることがありますが、意外なことに、そもそも仏教では肉食自体を禁止してはいませんでした。
仏教における食事の原則は、「施された物をいただく」であって、「肉類を食べない」ではないのです。
托鉢を行うなかで肉を施されれば、その肉を食べることが大切な修行なのです。
しかしながら、戒律の第一に不殺生を掲げる僧侶が、いくら施されたからといって肉をばんばん食べるのも、それはそれで考えもの。
ということで、仏教教団では3つの取り決めが作られることになりました。
3つの条件のすべてをクリアしていれば、施された肉を食べても戒律を破ったことにはならないと考えたわけです。
これを「三種の浄肉」といいます。
仏教では肉食を禁止してはいない
三種の浄肉
托鉢などで施された肉のうち、食べても問題ないと判断される基準となった3つの条件は、以下です。
- その動物が自分のために殺されるところを見ていない
- その動物が自分のために殺されたと聞いていない
- その動物が自分のために殺された疑いがない
以上の3つの条件をクリアしていれば、施された肉は浄肉と判断され、食してもよいと考えられていたのです。
三種の浄肉の判断例
この条件に照らし合わせると、たとえば次のように判断することができるでしょう。
- 僧侶の目の前で動物を潰して施した。
→①に抵触するのでダメ
- 「僧侶が托鉢に来ると思ったので、鶏を潰して料理を作りました」と聞いてしまった。
→②に抵触するのでダメ
- 托鉢をしていたら、家の裏手から鶏が絶命する声が聞こえ、その後その家から鶏を施された。
→③に抵触するのでダメ
- 肉料理を作ったら余ってしまったので、托鉢に来た僧侶に施した。
→僧侶のために殺されていないので食べてOK
3つの条件のすべてに「自分のために」という一文が入っていることから、自分のために動物が殺されればそれは不殺生戒を破ることにつながり、自分のために殺された動物でなければ、自分が不殺生戒を破ったことにはならないという理屈と理解することができます。
現代日本の感覚でいくと、「自分で殺さなければいいものなのか?」という疑問は残りますが、そこは時代や国柄などの違いもあるので一口に是非をいうことはできないでしょう。
当時の仏教教団はそう考えたということです。
「自分のためでない」ことが重要
托鉢と乞食
そもそも托鉢とは、不要なものをいただく乞食としての性格を有しているのであって、そうであるなら余り物をいただくことが一番ふさわしい。
僧侶が身にまとっている袈裟も、要らなくなって人々から捨てられたボロ布をつなぎ合わせて作るのが本来の姿です。
なぜ捨てられたものを使いのかといえば、要らなくなった布には何の執着も含まれていないから。ここがとても重要なのです。
だから袈裟はパッチワークのようにいくつもの布が縫い合わせられて作られているのです。
(現代では1枚の布で作った袈裟も多いですが……)
絹で作るとか、何万も何十万もかかる袈裟を身につけるのは、本来の在り方から考えれば真逆の行為と言わざるをえません。
袈裟とは高価なものではなく、執着の含まれていないもの、であるべきもの。
高価なものを欲するとは、それ自体が煩悩の最たるものと言えるでしょう。
肉食において「自分のために殺されていない」ということを重視しているのは、おそらくこうした考え方によるものだと考えられます。
あくまでも施主が不要とするものであったら食べてもいいということなのだと。
禁葷食
精進料理において禁止されると考えられているものは、肉類のほかにもう1つあります。
それがネギ類。
そのネギ類のことを「葷(くん)」といい、これを禁じるのが「禁葷食(きんくんしょく)」です。
寺院の入口にはよく「不許葷酒入山門」と彫られた石塔が建っています。見たことのある人もいるのではないでしょうか。
これを訓読すると「葷酒の山門より入るを許さず」となり、葷や酒は山門から中に入ってきてはいけないという意味になります。
葷と酒を禁止しているのですね。
なぜ入ってきてはいけないかと言えば、修行の妨げになるから。
酒は人を酔わせ、葷は精をつかせるため、どちらも修行の妨げになるというのが主な理由です。
まあ、確かにそうかもしれません。元気であるがゆえに力が余って悪い方向へと過ぎてしまうということが、ないわけでもないですから。
葷は昔から五葷(ごくん)とも呼ばれてきました。
時代によって五葷が意味する5つの内容は若干異なっていますが、代表的な五葷は次の5つ。
- ネギ
- ラッキョウ
- ニンニク
- タマネギ
- ニラ
たしかに、どれもパワーがつきそうなものばかり……。
葷は明確に禁止されている
おわりに
精進という言葉が菜食とイコールであれば、葷は野菜類に含まれるから禁止される理由はありません。
しかし通常、精進料理といえば菜食だけでなく禁葷をも意味しています。
このことからも、精進という言葉の意味が菜食ではないことがわかります。
精進とはあくまでも修行の意味であり、修行する者に施すにはちょっと問題のある食事として肉類と葷があげられます。
だから精進する者に施される食事には肉類と葷が入っていなかった。
それを精進料理と呼んできたものだから、精進とは菜食と禁葷を意味するものだと思われがちですが、それは一歩過程を飛ばしてしまっています。
精進と菜食は、無関係ではありませんが、直接に結びつくものではなく、あくまでも間接的に結びつく言葉だということです。
修行と精進と菜食・禁葷。
精進料理においてもっとも重要なのはもちろん、修行の部分だと言えるでしょう。