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「未曾有」ってどういう意味? 【身近な仏教用語】

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「未曾有」ってどういう意味?

東日本大震災から今年で7年。
あの災禍がもたらされてから、メディアでよく見聞きするようになった言葉がある。
未曾有(みぞう)


訓読みすると、「未だ曾て有らず」。
つまり未曾有とは「これまでに存在しえなかった」という意味を持つ言葉であるが、じつは未曾有という言葉はもともと仏教用語だった。
原語はサンスクリット語のadbhuta(アドゥブタ)で、原意は「あり得ない」「奇跡」「驚き」といったもの。


このアドゥブタという言葉は2つに分けることができ、「存在」「有る」等を意味するbhutaに否定の接頭辞a(d)が付いた構成となっている。
「有る」ことが「ない」から「あり得ない」「奇跡的」という意味となり、それは必ずしも悪いニュアンスを帯びた言葉ではなかった


もともとの未曾有

仏典のなかには、「未曾有」という言葉でもって仏を讃歎する文言があり、良くも悪くも「驚き」を意味する言葉だったのではないかと思われる。
「信じられないくらいに素晴らしい」みたいなニュアンスの言葉だったのではないかと。


現在では未曾有という言葉は良くない場合に用いられることが多く、その印象は東日本大震災後のメディアによる報道で一層鮮明となった。
だから「未曾有の災害」「未曾有の危機」とは使用するが、「未曾有のヒット商品」とは用いない。
そのような場合には、「空前の〇〇」とか「画期的な〇〇」とした類語が用いられたりする。


震災に関する一連の報道があるまで、未曾有という言葉はあまり馴染みのない言葉であったようにも思う。
それだけに、日常生活では聞き慣れない未曾有という未知の言葉と出くわし、その言葉が持つ音の不思議な恐ろしさが大震災の災禍と相まって、言葉の力とでも呼ぶべき、尋常ではない強烈な印象を受けたものだった。


これまでに存在しなかった、という意味でなら、「前代未聞」も同義であるが、こちらは未曾有に比べると若干軽い案件に使用するのが相応しいように感じる。
極めて珍しいことではあるが、あまり深刻過ぎず、呆気にとられるというニュアンスも含まれているからである。


そのため、「面接試験で自分の名前を言い間違えるという前代未聞のミス」という使い方をしても違和感はない。
「面接試験で自分の名前を言い間違えるという未曾有のミス」では、いかにも大袈裟過ぎる。
意味が似通ったものであっても、やはり言葉のニュアンスは1つ1つ異なっている


以前、ある方が
「『想い』って書いたら、『思い』が正しいから全部『思い』に直しなさいっていわれちゃった」
と困惑していたことがあった。


この場合ももちろん、「想い」と「思い」のそれぞれの文字に含まれるニュアンスは異なるわけで、それを「思い」に統一するよう人に強いることに、一体どれだけの利点があるのかよくわからない。
「頭で思う」
「心で想う」
こうしたニュアンスの違いを大事にすることが言葉を大事にすることにつながると思うのだが、うーん、直すよう指示した方の意図を聞いてみないことにはちょっとよくわからない。

災禍に想う

失って、はじめて大切さがわかる、とよく言われる。
それは確かにそうだけど、失ったものがあまりにも多すぎた。あの大震災では。
当たり前にあると思っていた日常が、決して当たり前にあるものではなかったことを痛感させられた。
だからせめて、「ある」ことの奇跡だけは忘れないでいなければならないと、自戒の意を込めて思う。


暑さが1つの災害であると認識されるほど、今年7月は未曾有の酷暑に見舞われてもいる。
命をも脅かす熱中症。もはや、ただ暑い日というだけではすまない。
熱中症で亡くなった方が大勢いる現状を考えれば、災害であるとの判断は大袈裟などではなく、至極当然な判断であるように思う。


できれば未曾有という言葉は聞き慣れない言葉のままでいてほしかったが、その想いはもうかなわない。
私たちはもう「未曾有」を経験してしまった
空前の出来事は受け入れるしかないから、あとはもう絶後であることを願うばかりだが、どうしても心のどこかで、さらなる未曾有が待ち受けているのではないかという燻りを消すことができないでいるのは、私だけだろうか。