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馬鹿の語源は仏教 ~愚鈍な仏弟子パンタカの悟り~

馬鹿の語源

馬鹿の語源は仏教 ~愚鈍な仏弟子パンタカの悟り~

人を罵る場合にもっとも使用頻度が高いと思われる言葉、「バカ」。
メジャーな悪口 No1


このバカという言葉は、漢字で書くとご承知のとおり「馬鹿」となる。
しかしこれは当て字だと考えられている。


「馬」と「鹿」を合わせて馬鹿(バカ)となることから、バカとは馬を鹿と間違えるような者のことだと思われることもあるが、じつは馬鹿の語源は意外にもはっきりしていない。


馬鹿という言葉の語源にはいくつかの説があるが、有力と考えられているのは仏教から誕生したという説。
サンスクリット語で「愚鈍・無知」を意味する「モーハ(moha)」という言葉を音訳して「莫迦」「莫何」と表記し、それがいつからか「馬鹿」に置き換わったという説である。


しかしなぜ「馬」と「鹿」という漢字に置き換わったのか。当然その理由が気になる。
いかにも不思議であるが、その理由としてよく説明されるのが、秦の始皇帝の次代に起きたといわれている次の事件だ。


馬鹿な悪臣、趙高

秦の始皇帝・嬴政が没した後、二世皇帝の座には胡亥がついた。
しかし胡亥は宦官・趙高の傀儡で、政治の表舞台に現れることはなく、実権はすべて趙高が握っていた
趙高はやがて丞相の地位にまで上り詰めるが、それでも満足せず秦を自分のものにするためのクーデターまでも謀った。


しかし、いかに権力を握っていようと、家臣のなかには皇帝寄りの者もいる。
そこで、いざクーデターを起こした際に、どれだけの家臣が自分の側につくかを把握しておく必要があると考えた趙高は、一計を案じた。


まず、趙高は宮中に鹿を連れてきて、皇帝に「珍しい馬です」といって献上した。
馬と言われても、どう見ても鹿なので、皇帝は「鹿だろう?」と家臣たちの意見を求めた。
家臣たちの中には、皇帝の言葉を肯定して「鹿です」と続く者もいたが、趙高を恐れて「馬です」と答えるものや、口を閉ざす者もいた。


皇帝の言葉「鹿」に同意するか、趙高の言葉「馬」に同意するかによって、どれだけの家臣が自分の側につくかを判断したというわけである。
その後趙高は、「鹿」と答えた家臣たちを敵とみなし、適当な理由をつけて粛清した。


このような悪臣趙高の故事がもとになり、馬鹿という表記が誕生したという説が有力視されているが、実際のところはよくわかっていない。
しかしこれがもし事実だとすれば、馬鹿とはなんと虚しい言葉であるかと思う。

愚鈍な仏弟子、パンタカ

バカといえば、パンタカの話も忘れられない。
もっとも、趙高のようなバカさとはまったく異なるので、そこは混同しないでいただきたい。


チューダ・パンタカ(周利槃特:しゅりはんどく)はブッダの弟子の1人だが、理解力に重度の難があった。
ブッダの教えを聞いても一向に理解できず、偈文を覚えることもできず、それどころか自分の名前も覚えていられなかった。
名前がわからないので、名前を書いた札を身につけていたのだが、そのことさえ忘れてしまっていたという。


パンタカには兄がおり、時を同じくして2人ともブッダの弟子となったのだが、兄弟なのに兄のほうは聡明な人物だった。
兄は弟の愚鈍さを哀れみ、これ以上修行を続けても悟ることなどできず時間を無駄にするだけだから、両親のもとに帰って孝行に励んだほうがいいと、弟に還俗をすすめた。


パンタカは困ってしまった。
自分はブッダの弟子であり続けたいし、修行も続けたい。
でも何1つとして満足に行うことができない。
自分には修行を続けるだけの資格がないのかと思うと、涙がこぼれた。


そこへブッダが通りがかった。
泣いているパンタカを見つけると、どうしたのかとブッダは訊ねた。


パンタカは事の成り行きを話した。
自分は何1つとして満足に行うことができない。理解も記憶もできない。
だから残念だけど、弟子をやめようと考えていることを


するとブッダはこんなことを言った。


「あなたに箒を渡そう。
今後、あなたは他の修行僧とは異なり、掃除だけに専念しなさい
払いたまえ、浄めたまえ、と唱えながら、掃除だけをしなさい。
それがあなたの大切な修行となる」


パンタカは、それなら自分にもできるはずだと思い、笑顔を取り戻した。


それからパンタカは毎日掃除をした
ほかの修行僧が坐禅を組んで瞑想をしているときも、ひたすら掃除を続けた。
修行僧の中にはパンタカが毎日掃除だけしているのを馬鹿にするような者もいたが、それも気にせずに掃除を続けた。


すると、パンタカの心は徐々に澄んだものへと磨かれていき、掃除を通じて心まで浄らかになっていった。
一心に掃除をすることが、一心に仏として生きることにほかならないと気付いたパンタカは、やがて掃除によって阿羅漢の境地に達した。
そして後に、十六羅漢と称される人物の1人となった。


これがパンタカの悟りの物語である。

馬鹿とは何か

パンタカの話から分かるとおり、仏教は愚鈍であることを否定しない。
人にはそもそも頭の良し悪しなどのほかにも無数の違いがあり、それぞれみんな違っている。
そして、違う人間が違うままに仏として生きればいいと説く


頭が利口であろうが愚鈍であろうが、重要なのは仏として生きているかどうか。
その1点なのだと。


また、ブッダはパンタカに対して次のような言葉も伝えている。

自分の愚かさを知る者は、愚か者なのではない。
本当の愚か者は、自分は優れた人物であると思い込んでいる者のほうである

単にパンタカを気遣った優しい言葉ではなく、真理を言い得た素晴らしい言葉だ。


馬鹿な仏弟子の代表として有名になってしまったパンタカであるが、ブッダに言わせれば「だから何だ」という話なのだろう。
仏教的に考えれば、利口になどならなくたって「馬鹿のままに仏になればいいだけのこと」と言える。


馬鹿とは何なのか。
馬鹿とは、馬鹿というだけのこと。

茗荷とパンタカ

ちなみにパンタカの死後、その墓から草が生え、生えてきたその草を食べると物覚えが悪くなるという話が生まれた。
その草を茗荷(みょうが)という。


茗荷が「名を荷ぐ」と表記されるのは、パンタカが自分の名前を覚えていることができず、いつも名札を付けていたことが由来と考えられている。
茗荷を食べると物覚えが悪くなるという言い伝えが存在する背景には、このようなパンタカの話が関係しているのである。