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智慧と知恵の違い、「賢い」の意味、オレオレ詐欺で考えてみよう

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智慧と知恵の違い【身近な仏教用語】

寺院の本堂の奥、須弥壇(しゅみだん)の上には必ず蝋燭(ろうそく)が置いてある。
蝋燭の本分は周囲を照らすこと、つまり照明という点にあり、暗がりを明るくするのが蝋燭の役割といえる。


ただし仏教ではこの蝋燭というものを単なる照明用具とは考えず、「ある象徴」として捉えている。
何の象徴なのかというと、智慧の象徴だ。
そしてそこには、「暗がりを明るくする」という蝋燭の特徴が大きく関わっている。


通常「ちえ」と聞くと、大抵はこちらの漢字の「知恵」を思い浮かべるのではないかと思う。
けれども仏教では「智慧」と書く。
簡単に書くか難しく書くかの違いと思われがちな差かもしれないが、仏教では両者をまったくの別物として考えている


漢字が異なるのは意味に違いがあるからに他ならないが、重要なのはその違いである。
智慧と知恵では何がどう異なるのか。
これは微妙な差のようでいて、なかなか奥の深い話なのだ。


知恵とは

まずはよく用いられる一般的な知恵の意味から。


「ちえ」という言葉を「知恵」と表記したとき、この言葉には大きく2つの意味が生じる。
1つは、物事について考えたり、判断したりする頭の働き
いわゆる知能と同義として用いる用法である。
「子どもが段々知恵を付けてきた」とか、「知恵者」とか、そういった用法。


そしてもう1つは、アイデアを指す用法である
「知恵が回る」とか「知恵を絞る」とか、よい考え、つまりはアイデアを指す使い方だ。
こういったことを考える頭のはたらきが知恵であり、この知恵を持つ者を指して「頭が良い」と世間では言われたりもする。


知恵があることを「頭が良い」と表現した際のこの「頭の良さ」とは、早い話が頭の回転を指すものと考えることができる。
これをしたらどうなるか、あれをしたらどうなるか、どの方法が最も利益を生むか。
良くも悪くも的確に計算をする頭の働きが知恵というわけだ

智慧とは

一方の智慧、仏教用語としての智慧は、計算をすることでも、頭の回転の良さを指すのでもない。
智慧は、真実はどうなのかを考える頭の働きを指す
物事の真実、たとえば幸せとは何だろうかとか、欲とは何だろうかとか、本当のところを考えて見抜いていこうとする頭のはたらきを智慧と呼ぶ。


これはオレオレ詐欺で考えてみるとわかりやすい。
オレオレ詐欺を考えた人は非常に頭が賢いと、決して善い意味の賢さではなく狡猾だという意味の賢さであるが、頭が回ることに間違いはないと言ったコメンテーターがいた。
言わんとすることはよくわかる。
卑怯という意味のずる賢さではあるが、複数名が共謀して被害者を心理的に圧迫し裏をかき、巧妙に騙し、金を奪うその大胆かつ緻密な手法には私も驚いた。


がしかし、これは所詮知恵の範囲を出ない。
ここでいう「頭の良さ」は、「計算高い」という意味でしかない
そしてそれはやっぱり、賢いのではない。


仏教でいうところの智慧とは、つまり賢いとは、そういった頭の働きとはまったく別のことを指す。
今まで誰も考えたことのない方法によって金を騙し取ることができたとして、そうして金を得て本当に幸せなのか、幸せとは金を得ることを指すのか、それは幸せではなく欲なのではないか、そういったことを考える頭のはたらきを智慧と読んでいるのである


詐欺をする人々は、金を得れば幸せだという前提を疑うことなく信じているから詐欺をするのだろうが、智慧が考えるのはまさにその前提そのもの。
そもそも本当の幸せとは何だろうかと、前提を問い考えることが仏教における智慧なのだ。


したがって、仏教的な視点から知恵と智慧の特徴をざっくり簡単にあらわすと、次のように考えることができる。

  • 知恵は、損か得か
  • 智慧は、真か偽か


考える対象というか、考え方というか、同じ「ちえ」であっても、両者は天と地ほどに質が違う。


オレオレ詐欺師は賢くない

オレオレ詐欺の手法を知って、世の中には頭の良い奴らがいるもんだなという感想を持った人は、「賢い」の基準を知恵だと考えていることになる。
一方、愚かなことをする奴らがいるもんだなという感想を持った人は、少なくとも「賢い」という言葉の意味を知恵とは考えていない人になる。
智慧寄りの人、とでも考えればいいだろか。


日常生活ではまず耳にしないが賢者という言葉がある。
賢者とは文字のとおり、賢い人のこと。
それはつまり、この行いが本当に幸せにつながるのか、本当に正しいこととは何なのか、そういったことを判断することができるから賢者なのである


詐欺師を指して賢者と呼ぶ人は、おそらくいないだろう。
つまり、卑怯という種類の頭の良さ、回転の良さは、本当の意味で賢いことではないことを、本当は誰もが知っているのだ
金を騙し取る人物を指して賢者とは呼ばないことを、詐欺をする当の本人たちさえも、心の底では知っているはずなのである。
卑怯であることは賢いことと真逆の生き方であることにも、本当は気付いているのだろう。


それでも道を改めることをしなければ、歩けば歩くだけ幸せから遠ざかる人生となってしまう
一度きりの人生を、そのように空費して本当に幸せなはずがないのに、それでいいのだろうか。

蝋燭が智慧の象徴である理由

知恵と智慧の違いについては上記のとおりであるが、なぜ蝋燭が智慧の象徴と考えられているのか。
それには蝋燭が暗闇を照らすという機能を有していることが深く関係している。


仏教において「暗い」とは、単なる明度の低さを意味するのではなく、「真実を知らない」あるいは「真実について考えない、目を向けない」ことをも意味する
どう生きることが幸せなのかについて考えることをしなければ、人は幸せの意味を知らずに一生を終えてしまうかもしれない。それではあまりにも虚しすぎる。
そうした人生を、歩くべき道がわからずに「暗い」と表現する。


だから何が幸せかを考える智慧を持つべきだと仏教は説く。
真実を照らし出す智慧は「暗さ」に光を当てる行為そのものと考えることができるからである。
つまり、どう生きればいいのかわからないこの人生において、智慧は進むべき道を照らし出してくれる灯火の如き存在であるというわけだ
だから蝋燭は智慧の象徴だと考えられているのである。


寺院で法要を行う際、蝋燭の火は必ず灯される。
それは単に「電気を点ける」という明かりの意味だけでなく、読経と同様、それが人の生き方を説く重要な教えであることをも意味するからである
「暗い」とは「真実に目を向けない」ことでもあるのだという思いで、ぜひ一度蝋燭の火を眺めていただきたい。
揺らめく炎は何も言葉を発っしはしないが、黙って暗闇を照らし続けている。