【両祖】曹洞宗の祖は2人いる ~道元禅師と瑩山禅師~
日本の仏教宗派の一派である曹洞宗(そうとうしゅう)では、あまり宗祖(しゅうそ)という言葉を使用しない。
宗祖とはその言葉のとおり、宗派の祖、つまりはその宗派の創始者というほどの意味であるが、そうした言葉を用いない。
普通、それぞれの宗派にはそれぞれの教えを説いた創始者という意味での宗祖が存在する場合が多いのだが、曹洞宗は少々特殊な事情があって宗祖という言葉をあまり用いないようにしているのである。
その理由について、両祖(りょうそ)という考え方をもとにまとめていきたい。
曹洞宗の祖を考える上で切っても切り離せないのが、両祖という言葉である。曹洞宗では宗祖という言葉を用いない代わりに、両祖という独特な言葉が存在する。
両祖というのは、一言でいえば「宗祖が2人いる」というほどの意味の言葉で、その2人とは道元(どうげん)禅師と瑩山(けいざん)禅師。
永平寺を開いた道元禅師があまりにも有名なものだから、曹洞宗の宗祖は道元禅師だと思われることがよくあるが、それは正しくもあり間違いでもある。あくまでも曹洞宗としては、宗祖は道元禅師と瑩山禅師の2人だと考えている。
曹洞宗の宗祖≒道元禅師
中学校の社会の時間で鎌倉仏教の宗派と開祖を無理矢理暗記した覚えのある方は大勢いらっしゃることと思う。ちょっと思い出していただきたいのだが、その場合、「曹洞宗は道元」とセットで暗記したのではなかっただろうか。
ちなみに、一般的な暗記の対象は以下のようなものだったはず。
- 浄土宗……法然(源空)
- 浄土真宗……親鸞
- 時宗……一遍
- 日蓮宗(法華宗)……日蓮
- 臨済宗……栄西
- 曹洞宗……道元
おそらく、どの出版社が出している社会の教科書でも曹洞宗の開祖は道元となっていると思われる。
しかしそうなると、曹洞宗には宗祖が2人いるという冒頭の両祖の話と矛盾するのではないかという疑問が生じる。
じつは、これまた非常に細かな話になるのだが、「開祖」が道元というのは間違いではない。
日本の曹洞宗の大元、つまり開祖は誰かということを考えれば、これは間違いなく道元禅師にたどりつく。
現に存在する曹洞宗の法系を遡っていったとき、この法系の仏教を中国から日本に伝えたのは道元禅師だからである。
つまり曹洞宗を開いた「開祖」は道元禅師だが、曹洞宗の祖は2人いるから「宗祖とは言えない」ということになる。
開祖であっても宗祖ではないという、いや、宗祖でないわけではないが、道元禅師だけが宗祖なのではないから限りなく宗祖に近いが宗祖ではないということで「宗祖≒道元禅師」、ほとんどイコールと言ってもいいが正確には違うという、この妙な祖をめぐる考えが曹洞宗という宗派の1つの特徴でもある。
なぜこれほどまでにややこしい話になっているのか。
これには道元禅師の意向と、曹洞宗という教団の広まりが大きく関係している。
一宗一派に偏らない「正伝の仏法」
そもそも道元禅師は曹洞宗と名乗ることをしなかった。名乗るべきではないと考えていた。禅宗という表現も嫌った。
自分が中国で学び日本に持ち帰った仏教は、ブッダが説いた教えをそのまま受け継いだものだから、何々宗とか何々派とか、一宗一派として考えるべきものではないと主張した。
つまり、宗派云々といわず、仏教そのものだと主張したわけである。
道元禅師はこのことをよく「正伝の仏法」という言い方で表現した。
自分が説く仏教はブッダの教えをそのままに伝えるものであり、宗も派もなく「仏教」そのものに他ならないという考えである。
だから宗派を名乗ることはせず、禅宗という呼び方もしなかった。
しかし、現実的な話、名前がないというのでは少々困る。
「あなたはどこの宗派ですか?」
と訊かれても
「仏教です。宗派はありません」
と答えるしかなくなってしまい
「いや、仏教って、うちだって浄土真宗だから仏教だわ」
となってしまう。
同じ仏教なのだからことさらに差を設ける必要はないかもしれないが、差別ではなく区別という意味でやはり名前はあってほしい。
こうした背景があって、道元禅師から数えて4代目にあたる瑩山禅師の時代に、曹洞宗という呼び方がなされるようになっていった。
周囲がそう呼び始め、やがて道元禅師の門下も自らを曹洞宗と名乗るようになっていったようである。
道元禅師の考え方からすれば宗派の名前を標榜することは本意ではなかっただろうが、道元禅師の説く仏法が全国的な広がりをみせるなかで、やはり名前がないのでは不都合があったのだろう。
現在では、曹洞宗は正式に自らの教団の名前を曹洞宗と制定しており、たとえ道元禅師の意向にそぐわないものであっても、すでに如何ともしがたい状況というわけだ。
曹洞宗という名前の由来
名前を持たなかった道元禅師の一派であったが、やがては曹洞宗とよばれ、また自ら標榜するようにもなった。
この曹洞宗という名前の由来については2つの説があり、じつはどちらが正解とは確定していない。
その2つの説のなかで、「洞」の字についてはどちらも同じ見解となっており、これは中国の曹洞宗(日本の曹洞宗と同名であるが別物)の祖と称される洞山良价(とうざん・りょうかい)禅師の「洞」だと考えられている。
道元禅師はこの洞山良价を非常に尊敬していたことが判明しており、おそらく「洞」に関しては間違いないだろうと。
説が分かれるのは「曹」の字について。
1つは、禅をインドから中国に伝えた禅の祖である達磨大師から数えて6代目にあたり、禅の大成者とも称される慧能(えのう)禅師を指す説である。
六祖とも呼ばれる慧能は曹渓山(そうけいざん)という山に住していたことから、曹渓山慧能禅師とも呼ばれており、曹渓といえば慧能を指す。
つまり「曹」はこの曹渓山の「曹」であり、慧能を指す言葉ではないかという説である。
もう1つの説は、洞山良价の弟子に曹山本寂(そうざん・ほんじゃく)禅師という傑僧がいたことから、この僧侶の名前から「曹」をとったのではないかという説である。
ただし、洞山良价から曹山本寂という流れの禅の系譜は、数代後に途絶えてしまう。
道元禅師が教えを受け継いだ師匠は如浄(にょじょう)禅師だが、この系譜は洞山良价から雲居道膺(うんご・どうよう)という弟子に受け継がれた法系に属するものである。
このような事実が存在するものだから「曹」は慧能を指すのではないかと考える人は多いが、今となってはもうよくわからない。
両祖
何はともあれ、道元禅師の一派には曹洞宗という名前が付与された。
普通であれば宗派の開祖である道元禅師が宗祖と称されるべきなのかもしれないが、上述のように道元禅師自身は宗派という考え方を嫌っていた。
そこで登場したのが、両祖という考え方である。
曹洞宗では2人の祖を定めることで、この問題をクリアしようと考えたわけだ。
両祖のうち、1人は道元禅師なのは誰でもすぐわかる。それこそ中学の社会の授業で習うレベルで、開祖なのだから祖であることに異論はなく誰でも納得できる。
しかしもう1人の祖、瑩山禅師は一般的にはあまり知られていない。
両祖という言葉は両人をともに祖と仰ぐという意味であり、両者は並列の位置付けとされる。
つまり道元禅師と瑩山禅師は同等の祖。
それにも関わらず、知名度ではとても同等とは言えない開きがある。
瑩山禅師が何をした人なのか、曹洞宗の歴史のなかでどのような評価をされている人物なのかもあまり知られていないので、なぜ瑩山禅師が開祖である道元禅師と同等の祖と位置付けられているのか、ちょっと不思議に感じる方もいらっしゃるようだ。
そこで瑩山禅師の生涯についてごく簡単に振り返ってみたい。
瑩山禅師の生涯
瑩山禅師が生まれたのは、道元禅師が亡くなってから11年後となる1264年のこと。
信仰心の篤い母の影響もあってか、6歳で僧侶なる志しを起こし、その後永平寺で出家をした。
毎日永平寺で修行を重ねた禅師は、18歳となった年に永平寺を出て全国を歩き渡り歩く行脚の修行を志す。
そして全国を行脚して多くの禅師と出会うなかで仏法を学び、また学び得た仏法を多くの人々に説いていった。
瑩山禅師は自ら布教を続けたが、それと同時に弟子の育成にも力を入れた。
瑩山禅師の弟子であった人物からは多くの僧が生まれ、その僧たちの活躍によって曹洞宗の教えは急激に広まっていった。
教えを広めたという観点から考えれば、瑩山禅師は祖といっても過言ではないくらいの功績を残したというわけである。
つまり、曹洞宗が現在のような大規模な教団に発展したのは、瑩山禅師の布教教化の功績による部分が大きい。あるいは瑩山禅師が輩出した弟子たちの活躍によるところが大きい。
この事実を重要なものと考慮し、瑩山禅師は曹洞宗の発展の基礎を確立した人物として祖と仰ぐ存在となったわけである。
このような歴史的背景から、曹洞宗ではブッダの教えを正しく受け継いだ道元禅師を高祖(こうそ)と尊称し、曹洞宗という教団の礎を築いた瑩山禅師を太祖(たいそ)と尊称し、両禅師を両祖と位置付けて仰いでいる。
道元禅師がいなければ曹洞宗は存在しなかったが、瑩山禅師がいなければ曹洞宗の広まりもなかった。
仏法を厳格に受け継ぐ道元禅師は父のようで、広く人々に教えを説いた瑩山禅師は母のよう。
この両親の如き両禅師が存在して、はじめて曹洞宗は曹洞宗として存在しているのだというのが、曹洞宗を宗派という観点で考えた際の最大の特徴といえるのである。