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ブッダの出家の契機を綴った「四門出遊」の話が極めて重要な理由

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ブッダの出家の契機を綴った「四門出遊」の話が極めて重要な理由


ご存じでしょうか。仏教の創始者であるブッダは、出家する以前、シャカ族という一族の王子であったことを……。


「ブッダ」と言うと清貧なイメージがあるかもしれませんが、もともとの身分はいくらでも贅沢をすることが可能な王子様だったのです。


あのブッダが王族出身とか……マジかよ……


そんなブッダが、なぜに王子という地位を捨てて、あえて出家者という厳しい道を選び生きたのか。みすみす幸福を手放すような、世の人から見たら意味不明の損な選択をしたかに思われるようなブッダの人生の転換点「出家」は、だからこそ、仏教が何を目指す教えなのかを考える上で極めて重要な示唆に富んでいます。


この「なぜ」に答えることこそが、「仏教とは何か」という根本的問いの答えをも成していると言っても過言ではありません。


ブッダの出家に関して、仏教には「四門出遊(しもんしゅつゆう)」と呼ばれる有名なエピソードが存在します。この四門出遊の話が史実なのかどうかはわかりませんが(おそらく後世における創作でしょうけれど)、たとえ作り話であったとしても四門出遊の価値はなんら輝きを失うことはありません。


なぜなら、四門出遊のエピソードにとって重要なのは「仏教が命題としているものは何か」を明示することだからです。


仏教の命題ってなんだ?


シャカ族の王子として生まれたブッダは、城で何不自由のない生活を送っていました。最高級の食べ物、最高級の衣服、夏や冬や雨期に適した住まい、傍には美しい女性たち……。当時これ以上恵まれた環境はないと言えるほど、ブッダを取り巻く生活環境は快適で贅沢なものでした。


それにも関わらず、ブッダは王子としての暮らしを捨てて出家をします。何不自由ないはずの生活をしていたのに、一体何が不満だったのか。なぜ王子としての恵まれた生活を捨てて、あえて厳しい修行生活を選んだのか。


くり返しになりますが、ここ「出家」にこそ、仏教の命題が潜んでいるのです。


仏教の命題って何なんだーーっ!?

「四門出遊」のエピソード

四門出遊は、ブッダが出家する以前、まだ王子の身分の頃にブッダが経験したとされる出来事を綴ったエピソードです。それでは四門出遊がどのようなエピソードだったのかを確認していきましょう。


ちなみに「ブッダ」という名前は悟りを開いたあとの呼び名であるため、出家する以前のブッダは親から名付けられた「シッダールタ」と表記したほうが適切のように思いますので、この記事では以後、悟りを開く前のブッダは「シッダールタ」と表記していきたいと思います。


ブッダとは「目覚めた者」という意味の言葉で、これは「目覚める」という動詞の過去分詞なんだな


へーえ、名前(固有名詞)じゃなかったんだ


ある日、シッダールタ王子は従者を連れてお忍びで城の外へ出掛けました。城の東西南北にはそれぞれ門があり、シッダールタは東の門から外に出ました。


すると、門を出たところでシッダールタは老人と出会います。衰えた姿の老人を見たシッダールタは、従者から「人は誰もが衰えて老人になる」ことを告げられます。自分の若さが永遠に続くものではなく、この身はやがて老い衰えていくものであることを自覚したシッダールタは、ひどく気持ちを落としてしまいました。


人間が老いることなんて子どもでもわかるんじゃない?


ここでブッダが知ったのは「人間は老いていく生き物」という一般的情報ではなく、「自分が老いていく」という我が身の事実でした。情報ではなく自覚であったということには注意が必要です。


そのまま出掛けるような気分でいられなくなったシッダールタは踵を返して門内に戻ると、次に南の門から外へと出ます。するとそこには病に苦しむ人がいました。


辛そうに臥せる病人に視線を向けるシッダールタに、従者はまた告げます。「人は誰もが病に罹るものです」。


今健康に快適に生きているこの肉体も、いずれ病に冒されて苦しむ時が来る。「私が病む」事実を知ったシッダールタは、またしてもショックを受けて城へと戻るのでした。


次にシッダールタは西の門から外へ出ることを試みるのですが、そこで出会ったのは死者を送る葬列。沈痛な面持ちで歩く人々と、もはや起き上がることのない死者の姿がそこにはありました。


人間は死に、葬られて骨になることを免れない。生まれた者は必ず死ぬのだという理を突きつけられたシッダールタは、紛れもないこの自分が死ぬ存在であることに恐怖し、またしても城へと戻るのでした。


3回チャレンジして3回とも打ちのめされたなんて可哀想な話……


自分の人生には「老」「病」「死」が待ち構えている。この事実を自覚したシッダールタは、人生に明るい展望を抱くことができなくなってしまったことでしょう。しかし、最後に北の門から外に出たとき、閉塞した未来に活路を見出す出会いを得ます。そこでシッダールタが出会ったのは、穏やかな佇まいの出家者――。


人生の先に待つものが老病死であるにも関わらず、安らかに生きる出家者の姿を見て、シッダールタは驚きます。なぜ出家者は老病死の苦悩に満ちた人生を安らかに生きることができるのか。自分もその道を歩んでみたい。自分の救いはそこにしかない。


こうしてシッダールタは出家への願望を抱くようになったのでした。


おしまい。


以上が四門出遊の大まかなエピソードになります。東西南北の4つの門から外に遊びに出て、そこで老人・病人・死人と出会い苦悩し、最後に出家者と出会って解決の道を見出すという話だから「四門出遊」と呼ばれているわけですね。


「四」つの「門」から「遊」びに「出」た話……と

四門出遊の話が存在する意義


私たち人間は、自分をとりまく生活環境をどれだけ快適なものにすることができたとしても、必ず、どうにもならない問題に直面することになります。その代表が四門出遊でも取り上げられている「老」と「病」と「死」。


ブッダはその後29歳で出家をしますが、冒頭でも述べたように、なぜ王子という地位を捨ててまで出家をしたのでしょうか。理由は明快です。何不自由のない暮らしができても、老病死の問題を解決することはできず、心が安らぐことがなかったから。暮らし振りに不自由がなくても、心はずっと老病死に悩み沈んだままだったのでしょう。


四門出遊が示している仏教の命題とは、ずばりこの「老病死をはじめとする苦悩の解決」です。そして、これら避けることのできない人生の難題に対してどのような対処が可能なのか、どうしたらこれらの問題を解決できるのか。それを摸索したのがブッダであり、その結論を説いたのが仏教なのです。


したがって、仏教は老病死に苦悩することからはじまった教えであり、その教えの内容は老病死をはじめとする苦悩からの脱却が中核になっていると言えるでしょう。


逆に言えば、老病死といった事柄に苦悩したことがなく、移ろいゆく世の中なかでも楽しく人生を謳歌していくことができている人にとって、仏教は必ずしも不可欠な教えとはなりません。


これは仏教が病院に似ていると表現されることとも関係しています。健康な人が病院に通うことがないように、苦悩を感じていない人が仏教を必要とすることはない、というわけですね。


仏教を本当に必要としてるのは、老病死を直視してしまう人たち……か


仏教は、人生には避けることのできない老病死をはじめとした重大な問題が立ちはだかっている、という「自覚」から出発します。自覚は誰かの情報ではありません。我が身の切実な問題です。自分の苦悩を自覚することから仏教ははじまるのです。


だからこそ、こうした問題を自分自身の身におこる「私の問題」として自覚していない人に、本気で仏教を学ぶ必要は必ずしもないのです。健康な人に薬を施す必要がないのと同じように、苦を感じていない人に仏教は必須のものではないのです。世の中を楽しく暮らしていける人は、そのままでいい。


その意味で、老病死を「私の問題」として感じやすい高齢者のほうが仏教に近しいという現状は、自然に頷くことのできるものであるとも言えます。


ただしその一方で、ブッダと同じように多感な青年期に人生に苦悩して仏教に活路を見出す若者が少数ではあるものの存在するのも事実。


いずれにしても、人生に苦悩することから仏教を頼りとするという流れが、今も昔も真剣に仏教を学ぶきっかけの王道となっているのは間違いないでしょう。