禅の視点 - life -

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忌中と喪中の違いは「期間の違い」なんかじゃない。

忌中と喪中の違い

忌中と喪中の違いは「期間の違い」なんかじゃない。


ふぅ……。

ねえ、お父さん。
喪中でも旅行って行っていいのかな?




おぉ、ダンゴか。どこに行きたいんだ?

っていうかダンゴ、別におまえ喪中じゃないだろう。
親戚誰も亡くなってねーぞ?




いや、私が旅行に行きたいわけじゃなくて、友達が悩んでてさ。

今電話で話してたんだけど、3ヶ月前に親戚が亡くなったらしくて喪中で、だけど1年前から旅行に行く計画を立ててあって、ずっと楽しみにしてたんだって。
もう忌中ではないんだけど、喪中ではあるからどうしようかって悩んでるみたいなのよ。




ふーん。

ところでその友達がいう喪中ってのは、何の期間のことを指しているんだろうな。




……えっ?
喪中って、命日から1年間のことでしょ?

身を慎まなきゃいけない期間。




……違うな。
そりゃあどちらかというと忌中に近い考え方だ。

もっとも、忌中は49日間を指す場合が多いが。




忌中と喪中って同じようなものじゃないの?

期間が49日間か1年間かの違いだけで。
忌中のほうが強力で、喪中になるとやや弱まる感じで。




強力な「忌」と弱力な「服」という考え方は確かにあるが、忌中と喪中の違いを49日と1年という期間の違いと考えるのはおかしな話だ。

本義を考えれば、忌中と喪中とでは意味がまったく異なっているから、決して同じとは言えん




そうなの?。
そんじゃあ、どこがどう違うのか教えてよ。

友達のアドバイスになるかもしれんから。




ほっほっ、よかろう。



忌中と喪中の意味


そもそも忌中も喪中も「故人を偲ぶ」ということにおいては共通している。

その上で、まず忌中だが、これはさっきダンゴが言っていた説明のとおり、「身を慎む期間」と考えていい。
もしくは「身を慎むべき期間」と言ったほうが、より意味合いが鮮明になるかもしれない。


というのも、忌中というのは死の穢れを内に閉じ込めておく期間のことで、要するに外部との接触が制限される期間のことなんだ。
だから昔は死人が出ると、その家には忌中の札が貼られ、実際にその家の人は一定期間外に出ることが許されなかった。




なかなか辛い話だね。
外に出ることが許されないなんて。
死の穢れっていう発想もよくわかんないんだけど、それって仏教の考えなの?

死の恐怖と「穢れ」


仏教では死を穢れとは考えない、これは神道の考え方だ。
それだけ死が怖れの対象になるものだってことの表れだろうな。
昔は伝染病で次々と人が亡くなっていったこともあったし、ウジが湧いたような屍は見るだけで嫌悪を抱く。

ちなみに、ダンゴはウジが湧いた腐乱死骸を見たことはあるか?
野生動物とかの。




ウ、ウジ!?

ひえ~~~!
そんなの見たことあるわけないじゃん!!




なんだ、見たことないのか。
それなら死の恐怖も実感としては知らんだろうな。

お父さんが子どもの頃は、田舎の道端とかにたまにタヌキやら小動物の死骸があって、放っておくとそのうちにウジが湧くのを見て育ったんだよ。
ウジが湧いてやがて死骸がウジで埋めつくされて、異臭とともに筆舌に尽くしがたい凄まじい光景が広がっていくのを見たことがないんじゃあ、死の怖ろしさを知らんのも無理はない。




……ウジで死体が埋めつくされるなんて、もはやホラー映画の世界……。




何を言っとる、映画じゃなくて普通の現実の話だぞ。

昔は今ほど死が隔離されていなかった。
だから死がもっと身近にあった。死体が身近にあったというか。
だから死のおぞましさを知っている人も多くて、だから死を遠ざけようとする気持ちも共有されていた




なんか悲しいね。

もしお父さんが死んじゃったら、お父さんを遠ざけることになるのかと思うと。




おい、どんな想像をしとるんだ!?

でもまあ、死を忌むっていうのは、死に付随する穢れた「気」のようなものを忌むのであって、死者を忌むのとはちょっと違うんだけどな。

……まあ細かな話は置いておいて、とにかく忌中は外部との接触を控える期間というのが本質と考えればいい。
死の穢れを広めないために。
周囲の人が死を怖れていることを考慮して、極力近づかないようにするということだ。


公のルールとしての忌中


今は人が亡くなるのは病院が多いし、死んだ後の防腐処置も調っているし、お父さんが言う「死の怖ろしい部分」ってのを見なくて済むようになってるのかもね。
昔はそれがもっとよく見えてしまっていたから死の穢れも実感としてあった。

私なんか死の穢れなんて言われても、ぜんぜんピンとこないもん。




そうだろうな。

昔は死の穢れが共通認識のようにしてあった。
だから忌中は「公のルール」のようなものだった。
もちろん今でもある程度はそうだが。

実際、企業や団体の就業規則では忌引休暇がちゃんと規定されている場合が多い。
お父さんの会社も、故人との関係によって忌引休暇の日数はしっかりと規定されている。

忌中は自分だけで済む問題ではなくて、みんなが怖れている死をみんなのために封じ込める期間という側面が強いんだ。
だから遺族はほとんど強制的に身を慎むしかなかった。
コミュニティが強固な田舎ほど、その傾向は強かったことだろう。




なーるほど。
ご近所さまのためにも慎まざるをえないと考えると、たしかに公のルールに近いね。

忌中、おそるべし……!!




怖ろしいさ。

「忌む」なんて言葉、普段じゃあまず使わないだろ?
死は非日常の最たるものだ


喪中とは何か


そんじゃあ忌中はとりあえずわかったから、次は喪中を教えてよ。

喪中は何が違うのさ。




喪中はな、一言で言えば「悲しみに暮れている期間」を意味している。




悲しみに暮れている期間?






そう。

親しい人が亡くなって悲しいというのが、「喪」の意味
だから悲しい気持ちが続いている間が喪中になる。




じゃあずっと悲しいままだったら?







もちろんずっと喪中になる。

ヨーロッパの国とかで、未亡人がずっと黒色の服を着て生活をしているという話を聞いたことはないか?
あれはまさに何年も喪に服しているという意味を体現した姿と言える。
つまり、喪は何年だって続くんだよ
極端な話、一生涯でも。

悲しみが癒えない限り、ずっと喪中だ。




そういえば黒が喪の色っていうのは、世界的にみてもけっこう普遍的なことらしいね。
日本だけじゃないって話聞いたことがある。

そっかぁ、喪は期間が決まってるものじゃあないのかぁ。




そう。
期間は決まっていない、というか決められるはずもない。
1人ひとりの置かれている状況はそれぞれ異なっているんだから。

それに、「偲ぶ」気持ちも「悲しむ」気持ちも、完全に消えることなんてあると思うか?
心の片隅に故人への想いがひっそりと留まり続けている人なんて大勢いるだろう。
喪は明けるものではなくて、抱き続けていくものと理解したほうがいいとさえ思える。


だから、「喪はだいたい1年と考えられています」とか書いてある文章を見ると、「誰が悲しみの期間は1年って決めたんだよ」ってツッコミたくなる。
悲しみの期間なんて他人が定めるものじゃないだろう。
喪中と忌中を混同してるとしか思えん。




たしかに、普段は意識することがなくても、ふとした瞬間に悲しみが込み上げてくることってあるね。
あたしもたまに死んじゃったお母さんのことを思い出すよ。もうあれから十年以上経つけど……。
そういう意味では、あたしもまだ喪中なのかなぁ。

そっか。悲しみに暮れる期間が喪中か……。

それじゃあ喪中は、忌中みたいにご近所さまに気を遣う必要とかはないの?




ない。
忌中が隔離のルールであるのに対し、喪中はあくまでも自分の心の状態をいっているだけだからな。
それが忌中と喪中の本質的な違いだ。

これでも忌中と喪中を「同じ」ものだと思うか?




うーん、同じでは……ないね。

少なくとも、喪中が1年といわれてる意味はわかんない。


忌中と喪中は似て非なるもの


よく「忌中と喪中は期間が違うだけで同じようなもの」なんて言われたりすることがあるが、確かにパッと見で似ているところはあるかもしれんが、根本的に意味がぜんぜん違う




ん?

似ているところっていうのは、どんなところなの?




たとえば悲しみに暮れて、頑張ろうっていう気持ちがどうしても起きなくて、家にこもりがちになって、そういう姿が傍目からは「慎んでいる」ように見えることがあるかもしれん。

しかし、それは忌中の「慎んでいる」状態とは根本的に異なる。
公に対して「慎まざるをえない」のが「忌」であるのに対し、悲しくて自然と「慎んでいるようになってしまう」のが「喪」だ。
それが忌中と喪中の似て非なるところ。




なるほど。
どっちも慎んでいる感じだけど、意味はまったく違うのね。



仏教には忌中も喪中もない?


そういえば、忌中とか喪中とか言ってて思いだしたんだけど、浄土真宗には忌中や喪中がないんじゃなかったっけ?




おお、よく知っているな、意外だ。

たしかに浄土真宗は、「人は亡くなったらすぐに成仏して仏さまになる」と考えてるから、忌中なんて考えはない。
死とは喜ばしい成仏であり、死を忌むべきものと考えない浄土真宗にとって、忌中は存在しない

ただ、それを言うならそもそも仏教全般にも死を穢れなんてふうに考える思想はないんだけどな。


仏教では「無常」を説く。
死は、微塵な要素が仮に和合した集合体であるところの人間の構成要素が離散する変化であって、死なんてものはないと考えている。

だから浄土真宗に限らず、仏教が忌中を採用する理由はない。


「四十九日」の意味


……ちょっと一部よく意味がわかんない箇所があったけど……。

でも仏教の他の宗派では亡くなると四十九日のお参りをするでしょ?
あれって忌中のことじゃないの?




ああ、中陰のことか。
仏教の中陰と日本の忌中はまったく別ものだ。

中陰というのは、もともとはインドにおける生まれ変わりの期間のことだった。
次の生に輪廻するまでの期間が、中陰とよばれる49日間。




輪廻は知ってる。

亡くなったおじいちゃんが蚊に生まれ変わっているかもしれないから、蚊の1匹も叩かないってやつでしょ。




そうそう。
そんなふうに次の生に輪廻するにはちょっと期間が必要で、その期間を中陰と呼んだ。

そしてこの中陰の期間に死者の供養をすることで、よい来世へ生まれ変わる縁としようとしたのが中陰供養の考え方だ。

それは遺族が死の穢れを拡散させないために身を慎む忌中とは意味がまったく異なる。




そうだったんだ。
中陰って忌中のことだと思ってた。

これも似ているようで違うのね。




確かに似ている部分もあるにはある。
忌中は外部との接触が遮断されるものだから、家のなかに閉じこもることになる。
閉じこもって何をするかといえば、故人の供養をする。

だから忌中も中陰も死者の供養をする期間ということで、同じものだと考えられやすい。
だが本来の意味はまったく別というわけだ。




なんだかややこしい話。
もうちょっとどうにかならないのかねぇ、まったく。

そういえば浄土真宗では喪中はがきも出さないっていうけど、やっぱり喪中もないの?




忌中と同じ意味での喪中はない。

しかし、喪中の本来の意味である「悲しみに暮れる」ことを喪中とするなら、浄土真宗でも喪中はあると考えるべきだろう。
本人が悲しんでいるなら、それは間違いなく喪の中にいるんだから。




でも、浄土真宗では死んだら人はすぐに仏さまになるんでしょ。

それなら死ぬことも悲しいことじゃないんじゃないの?




教義として「悲しいことじゃない」としているだけで、遺族当人の心の状態を「悲しくない」と他人が判断するのは難しいだろう。
本人が辛いのなら、辛いのが事実なんだから。




まあ、そうか。

無理して「喪中なんてない」なんて言えないか。



忌中、喪中に結婚式に招待されたら


一応、忌中と喪中の違いはわかったけど、もう少し具体例に沿った話も聞きたいな。

たとえば、喪中に結婚式に招かれたら?




出席するべきではない、と他人が言う根拠はどこにもない。
なぜなら、喪中が欠席の理由の場合、その意味は「気持ちが沈んでいて、今はまだとてもじゃないけど結婚式に出席する気持ちになれない」という意味になるからだ。

あくまでも自分の気持ちが原因で欠席するのであって、他人がどうこう言うことではない。
沈んだ気持ちが戻ってきて、「結婚する友人の花嫁をお祝いしてあげたい」と思えれば、出席してかまわないだろう。

そもそも、故人を偲ぶ気持ちと、花嫁を祝福したい気持ちは両立する。
偲びつつも日常に戻っていけばいいというのが、お父さんの考えだ。




なるほど。
年齢のわりに柔軟な考えの持ち主であることはよくわかったわ。




年齢は関係ないだろう!

「喪中の目安は1年」なんて話を、考えることをせずに鵜呑みにするほうがおかしい。
若かろうが年を取ろうが、考えることをしない人間はいくらでもいる。
年齢ではなくて考えるかどうかだ!!




はいはい。
失礼しましたよ。
もう年齢で判断するようなことは言いませんよ。

じゃあ、忌中に結婚式に招かれたら?




それはちょっと考える必要があるだろうな。

たとえ自分が悲しみの状態になくても、忌中の本質は死の穢れを拡散させないという、他者を意識する点にある
自分がよくても、他の列席者がよく思わない可能性は十分に考えられる。




そうかぁ。
じゃあやっぱり、忌中の場合はなるべく出席しないほうがいいのかぁ。

……残念。




新郎新婦が、相手が忌中であることを承知の上で招待をしているのであれば、「死の穢れなんて気にしてないからお祝いに来て」と解釈することができるから、あとは自分がどう判断するかになるかもな。

死のおぞましさを目にしなくなったこの時代に、死の穢れを忌むなんて感覚はなくなりつつあるから、もしかしたら忌中なんて考えは今後消えていくかもしれん

葬儀の最後に塩をふるという習慣も、今ではもうほとんど目にしなくなったから、忌中の慣わしも時間の問題のようにも思える。




塩って、葬儀場で「ご自由にお取りください」って書いてある籠のなかに塩の小包装が入ってるやつね。

……あれって何か好きじゃないな。
葬儀を終えて家に帰ってきて塩をふって清めるのって、何か、亡くなった方に失礼な気がしちゃうもん。




まあ、な。
亡くなった本人からしてみたら、ちょっとショックかもな。




そうだよ。
亡くなった人が「私、穢れの原因なんだ……」って思っちゃうじゃん。

そんなのおかしいよ!!




わからんことはない。
が、ただし、死の穢れっていうのはあくまでも死を招く「気」みたいなもののことで、故人が穢れているわけじゃあないから、そこは間違えるなよ。

それに、清めというのは非日常から日常へと戻る儀礼の意味でもある。
何もなしに日常へスッと戻ることはできなかったんだよ。

それくらい、死というのは特に異質な出来事だった。




そっかぁ。
なかなか複雑なもんなのね。

いろいろ知ってないと判断のしようがなくて難しいわ。




亡くなった側の視点で考えてみる


うーん、じゃあ、友達へのアドバイスはどうしよう。

喪中は忌中とは違うから、旅行が「禁止」でないことは伝えるとして、あとはどう伝えればいいと思う?




そうだなぁ……。

自分が亡くなった側になったつもりで考えてみるというのはどうだ?

たとえばダンゴが亡くなって、お父さんが悲しみに暮れていたとする。
お父さんは胸に穴が空いたような沈んだ気持ちが続いて、以前の日常生活に戻ることができない。
そんなお父さんをあの世から見たら、ダンゴ、お前どう思う?




……心配だよね、たぶん。
元気出してって、たぶん思うと思う。

……たぶん。




お、おお。
「たぶん」が若干余計な気がするが、心配になるよな、そうだろう。
というか、そうであってくれ。

元気が出るように、もとの元気な状態に戻るように願うのが親しい間柄の心情だと思う。
ずっと沈んだ状態でいてほしいとは思わんだろう。




うん。

それで?




だからダンゴの友達も、自分が亡くなった側だったらどう思うかで考えればいいんじゃないか?

「楽しく旅行に行ってきなよ」って思うようなら、行けばいいってことだ。




なるほど。
亡くなった方が願っているのは、遺族に笑顔と日常が戻って、明るく過ごせるようになることかもしれないもんね。

それなら、亡くなった方に変に気を遣うこともないか。
偲ぶ気持ちはあるんだし。




少なくとも、お父さんだったらそう思う。
ダンゴには元気に過ごしててもらいたいと。

それに、こうした考え方はじつは仏教的でもある。




そうなの?

どのあたりが仏教的なの?




「賽の河原地蔵御和讃」というお経というか物語を知っているか?

これは仏教で言うところの、いわゆる「賽の河原」の物語なんだが、子を亡くした親が涙を流すと、賽の河原にいる子どもが鬼に責められるという話だ。
親が泣くと、子どもは親を悲しませたから悪いとされて鬼にいじめられるんだよ。




酷い!
それはちょっと酷すぎるよ。

亡くなった先でまで鬼から責められるなんて……!




だから親は涙を流すのではなく、明るく生活するべきだということが言いたいわけなんだよ。

子どもは地蔵菩薩が抱きしめて護るから、親は笑顔で過ごしておくれ。
そうして生きることが子どものためになるのだと。




なんか、すっごい論理だね。

親が泣くと、子どもが泣いた責任をとらされるから、笑えという。




強引にでも平常に戻させようとしたということかもしれんな。

それほどまでに子を失う悲しみは深い。
人によっては、それこそ立ち直れないほどに。




なるほど。

いろいろ総合すると、喪中に旅行を控えるのは「とても旅行に行く気になれないから旅行に行かない」ことであって、行動が制限される期間ではないから、身を慎まなければいけないという理由で喪中に旅行を控える必要はないということでよさそうね。




元気があるなら、行けばいいさ。
喪中は故人を偲ぶ期間、悲しみの期間だが、それは日にちで区切れるようなものじゃない
その気持ちがあったとしても、日常に戻っていっていい期間だ。

それに、亡くなった身内の方も、その子が元気に旅行に行く姿を見送りたいんじゃないか。




ふぅ~~。
なんかスッキリしたわ。
あとで友達にもそうやって話してみるよ。

それにしても、お父さんってなんでそんなに仏教とかに詳しいの?




よくぞ訊いてくれた。

お父さんは、じつは昔……




しまったー!!

友達と買い物に行く約束してたのすっかり忘れてた!
ちょっと行ってくらぁ!




お父さんの過去に興味持てやー!!





【つづく】


なのなのなさんによるイラストACからのイラストを使用しています。