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檀家とは? ~檀家制度、菩提寺、檀信徒の意味や問題点など~

檀家とは


檀家(だんか)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。


何世代にもわたって代々の家(土地)に暮らしている家系の方々は、その地域の近くに菩提寺(ぼだいじ)がある場合も多く、檀家という言葉も日頃から十分に承知のことと思います。


一方で、代々の家から離れて別の土地に新居を設けた家系の方々は、あまり檀家という言葉に接する機会がないかもしれません。「どこのお寺の檀家なの?」と訊かれても、よくわからなかったり、そもそも檀家って何? と戸惑ったりする方もいらっしゃることでしょう。


そこで「檀家とは何か?」から始まり、現在の檀家制度ができるまでの経緯、さらには現代では檀家という呼称に代わって「檀信徒(だんしんと)」という呼び方が推奨される現状など、「檀家」にまつわるアレコレを僧侶側から少々詳しくお伝えしていきたいと思います。


約9000字の盛り沢山記事だから、気合い入れて読んでこー!



檀家ってなに?


檀家とは、特定の寺院に所属し、その寺院を護持(支援)している家のことです。


仏教はもともと、僧侶は在家者(一般の方々)に仏法を説き、在家者は僧侶に食事をはじめとする必需品を施す(布施する)ことで僧侶の生活を支えるという関係の上に成り立ってきました。僧侶は戒律によって生産活動(耕作等)が禁じられているため、在家者からの施しに依存する修行形態をとっていたのです。


こうした関係は、仏教がインドから他国に伝播したり、時代を経たりすることによって少しずつ、時にはダイナミックに変化をしていきましたが、「在家者が僧侶に施しをする」という根本の部分は曲がりなりにも現代にまで続いています。


ただし日本仏教では、在家の信仰者が個人的に僧侶に施しをするというよりも、一家の代表者が付き合いのある寺院に対して「家」を代表して布施をするといったほうが実状に近く、それは個人が布施をするというよりも「家」が布施をしていると捉えたほうが正確だと考えられます。


本来であれば施主は個人であるはずなのに、なぜ日本では「檀家」とあるように「家」が単位となっているのか。よくよく考えてみればこれは少々不思議な話なのですが、この点こそがまさに「檀家とは何か」の核心になります。


まずはこの核心に迫るべく、江戸時代にまで話を遡ってみましょう。「家と寺院」の結びつきである檀家制度が生まれた背景には、江戸時代に設けられた「寺請制度(てらうけせいど)」が深く関わっているからです。


江戸って……メッチャ遡るじゃんよ……

すべては寺請制度からはじまった

寺請制度とは、江戸時代に設けられた、民衆全員がいずれかの寺院に所属し、キリシタンでないことを寺院が証明する制度のことです。


これは当時「邪宗門」と敵視されたキリスト教の発見や締め出しのために行われた制度であり、民衆は所属した寺院から寺請証文という身分証明書のようなものを発行してもらい、自分は仏教徒でありキリシタンではないことを証明したのでした。ちなみに、所属する寺院のことを菩提寺(ぼだいじ)といいます。


寺請制度によって民衆がいずれかの寺院に所属すると、必然的に民衆はその寺院の檀家となりました。ただしこれは必ずしも悪いニュアンスばかりのものではなかったようで、民衆の側にも寺院への帰属願望があったからこそ寺請制度は日本中に浸透し得たのだろうという考え方が有力です。死後の安寧を願って僧侶によって死者を丁重に弔ってほしいという願望が強かった、ということなのでしょうか。


ともあれ、こうして寺請制度によって民衆と寺院は「檀家と菩提寺」という関係を築き、葬儀や先祖供養は菩提寺が執り行こない、檀家はお布施などによって菩提寺を護持するという檀家制度がはじまったのでした。


寺請証文は民衆の大事な身分証で、引っ越しや旅行の際にも携帯していたんだぞ

経済的安定と宗教的堕落

寺請制度の発足により、寺院は檀家となった民衆に対して寺請証文を発行する義務を負うようになったため、檀家について正確に把握しておく必要が生じました。


そこで寺院は宗門人別帳という、今でいう戸籍のようなものを作る必要に迫られました。それは役所の機能を寺院が担うことを意味しており、寺院は幕府の一翼を担う機関として、統治体制のなかに組み込まれていったのです。つまり寺請制度とは、実質的に、寺院が幕府の出先機関の役所に位置付けられた制度でもあるのです。


幕府の一翼として寺院が役所の仕事をすることになると、寺院側には本来の宗教活動が疎かになるという悪影響が生じました。また、檀家という安定した支援者を得た寺院のなかには、宗教活動が怠慢になり堕落するという、良からぬ僧侶も現れるようになりました。


こうした仏教教団の腐敗は、その後、明治期における廃仏毀釈の一因へとつながっていきます


お寺と幕府の結びつき……権力のアヤシイ匂いがするわね!




菩提寺とは?

寺請制度によって檀家と菩提寺は互いに関わり合いを持つようになりました。菩提寺とは前述のように、檀家が所属し、護持する対象の寺院のことです。菩提寺は檀家の要望に応じて葬儀や先祖供養といった法要を務めたり、説法などによって仏教を伝えたりすることを主たる務めとしています。


現在の役所が「世帯」をもとに戸籍を作成しているのと同じように、寺請制度によってはじまった檀家制度も「家」を単位として続いてきました。これには、先祖供養が「家」の先祖で1つのまとまりを形成していることも多分に関係しており、個人と菩提寺ではなく、あくまでも「家と菩提寺」という関係のなかで檀家制度は機能をはたしてきたのです。


しかしながら、当然の如く「家」は人間ではなく、家が仏教を信仰するということはありえません。あくまでも仏教を信仰するのは一人ひとりの人間であり、そのため檀家制度には信仰という面から見てどうしても強引で無理な部分がありました


そこで登場したのが、檀家ではなく「檀信徒」として個人レベルで考えていこうという新しい動きです。


現在は「檀家」という呼称よりも、できるだけ「檀信徒」という呼称を用いることが推奨されているのですが、檀信徒の話をするまえに、まずは檀家や檀信徒という言葉の頭に付いている「檀」の字について触れておきましょう。


檀信徒ってなんだろう? はじめて聞く言葉な気がする

檀家 = ダーナパティ = 施主

檀家の「家」はそのまま「家」の意味ですが、じゃあ「檀」って何だかご存じでしょうか。じつはこの「檀」という字は当て字(音訳)で、漢字自体に意味はありません。重要なのは発音のほうなんです。


というのも、「檀」のもとになった言葉はサンスクリット語の「ダーナ」という言葉になります。この「ダーナ」という言葉が中国に伝わった際、似た発音の「檀那」という漢字を当てて表記しようということになり、そこから「那」が落ちたのが「檀」なわけです。


それで、そもそも「ダーナ」の意味は何かというと、これは「布施」という意味。なので「檀」一文字でも意味はもちろん「布施」になります。そうした布施を意味する「檀」と、布施をする主体である「家」が合体して「布施をする家」、転じて「布施をする者」というのが檀家という言葉の意味になります。


ちなみに、ダーナパティという言葉もあり、これはまさに「布施をする者」の意です。インドっぽいニュアンスですと「寺僧を供養する者」としたほうが適切でしょうか。いずれにしても、意味は「施主」です。なので檀家という言葉の原語はダーナパティだと考えても問題ありません


ちなみにちなみに、檀家に似た言葉に「檀越(だんおつ)」という言葉があります。これは檀家と同じ意味の言葉でして、ダーナが中国で音訳されたとき、「檀那」のほかに「檀越」とも訳されたため、別バージョンがあるというだけの話です。


檀越は「だんおつ」と読んでも間違いではないでしょうが、「n」のあとに母音が付いているので発音する際は通常「だんおつ」ではなく「だんのつ」と読みます


「山王」を「さんおう」ではなく「さんのう」と読むのと同じ理屈だな

「檀家」よりも「檀信徒」を推奨

さて、それでは檀信徒の話に戻りましょう。


檀家は文字どおり「家」を単位とした言葉でした。先祖が「家」の先祖であり、先祖供養も「家」の先祖を供養する以上、一見すると家を1つの単位することに不都合はないようにも思えます。実際、檀家制度はそのようにしてある程度うまく機能してきました。


しかしながらやはり不都合な部分も少なくなく、現代においては檀家という言葉はなるべく使用しないほうがいいのではないかという風潮が仏教界には存在します。


そこで台頭してきたのが「檀信徒」という呼称。


檀信徒という言葉は、「檀徒」と「信徒」という2つの区分を合わせた総称ですが、これは従来の檀家さん全体を意味し、さらには従来の「檀家」という枠組みではうまく当てはまらなかった人をも含めた言葉になります。ともあれ、檀家さん全体を2つのグループに分けた場合(檀徒と信徒)の総称が檀信徒だと、とりあえずは理解していただければ大丈夫です。


檀徒と信徒の違いについては後述するとして、この檀信徒という呼称が推奨される理由は大きく2つあります。1つは、「信教の自由」の観点。もう1つは、菩提寺との関わり合いの「濃度」の観点。


檀家さんを「檀徒」と「信徒」に分けて、合わせた言葉が「檀信徒」か




「信教の自由」と檀家制度

家に神棚があり、仏壇もある、という家は今でも少なくありません。「日本人は神道で生まれ、儒教で育ち、仏教で死ぬ」なんて言葉もありますが、このフレーズが示すように、日本では1人の人間が複数の宗教に所属するケースが多々あります


たとえば神社の氏子は、そのようなケースの最たるものでしょう。寺院の檀家であり神社の氏子でもあるという方は相当数にのぼるはずです。まあ、それゆえ、いつの間にか氏子としてカウントされていたという問題は信教の自由との兼ね合いからたびたび問題となっていますが……。


神社って、宗教施設というより公共施設っぽいイメージあるもんなぁ

憲法20条 信教の自由

日本国憲法第20条は、信教の自由について定めた条文です。だれにも保障される権利なので、実際の条文を確認しておきましょう。

  1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、 又は政治上の権力を行使してはならない。
  2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
  3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


1 で信教の自由が何人に対しても保障されているというのは、個人がどのような信仰をするのも、信仰を変えるのも、信仰をしないのも、自由だということです。「する」だけじゃなく、「変える」のも、「しない」のも自由ですからね。


もし「檀家」というように信仰の単位を「家」とした場合、個人の意思とは無関係に、悪く言えば強制的に、その家に生まれたという理由でその家の人を仏教徒として捉えてしまいかねません。これは個人の信教の自由という観点から考えると、当然好ましいこととは言えません。


先祖供養を行う際、先祖とは家の先祖であることから、家を対象として考えることをまったくなくすことは実際には難しい面もあるのですが、それでも基本的には個人を対象とし考えていくことが適切だという流れは、至極真っ当なものだと思います。


檀家と呼んだ場合ははっきり「家」を単位としてしまいますが、檀信徒とした場合には個人を対象とするニュアンスが強いため、これが信教の自由という観点から檀信徒という呼称が推奨される1つ目の理由になっています。


家ではなく個人を対象にして考えていこうということなのね

関わり合いの濃度

では続いて、菩提寺との関わり合いの「濃度」についてみていきましょう。


一口に「菩提寺と関わりがある」と言っても、実際にどの程度の関わり方をしているかは人によって十人十色。常日頃から菩提寺の護持に協力されている方もいれば、平時は何の関わりも持っていないという人まで、菩提寺との関わり合い方は種々様々です。


そうした関わり合いに濃淡がある寺院関係者を十把一絡げで「檀家」と把握するのは適切とはいえず、そこで檀家という括りを2つに分類し、「檀徒」と「信徒」に分けて考えたほうが適切ではないかという発想が、檀信徒という考え方の根底にあります。


檀徒も信徒も、どちらも寺院の関係者という意味では同じなのですが、両者にはもちろん違いがあります。次にその違いについて述べていきたいと思いますが、ただし両者の分類は曖昧な点が多く、特に信徒に関しては寺院ごとに解釈が違うといっても過言ではないほど幅広いものになっていることを最初に断わっておきたいと思います。



檀徒とは?

檀徒とは、菩提寺との関わり合いの濃淡でいえば「濃」と考えられることが多い区分になります。厳密な定義こそ存在しないものの、宗派を越えてある程度似通った基準はあり、次に挙げる4つの項目をすべて満たしている場合、多くは檀徒に区分されるものと考えられます。

  1. その宗派の教義を信奉する者。
  2. その宗派の寺院に所属する者。
  3. その寺院に仏事法要を委託する者。
  4. その寺院の護持に協力する者。 


宗派の教えに学び、寺院の名簿に登録され、僧侶に法要を委託し、布施をする方。こうした方はほとんどの寺院で檀徒と判断されていることと思います。


2に「その寺院に所属する者」とありますが、大前提として、檀徒も信徒も、特定の条件を満たしたら自動的に檀信徒となるわけではありません。寺院には檀信徒の名簿があり、条件を満たす方を対象に、本人との意思確認の上、最終的に住職が判断をして檀信徒名簿に名前が登録されます。この登録をもって正式に菩提寺の檀徒もしくは信徒となるわけです。


また、この4項目すべてを満たしている方は、その宗派に所属する「仏教徒」であるともいえます。あえて「4項目すべてを満たしている方」という条件を特記したのは、次に述べる信徒の場合では、必ずしも仏教徒であるとはいえないためです。


実際、「臨済宗A寺の檀徒であり、曹洞宗B寺の信徒でもある」というような、檀徒と信徒を同一人物が別々の寺院で兼ねているケースは決して珍しくありません。信徒という言葉に馴染のない方はおかしな話に思えるかもしれませんが、信徒というものがどのように解釈されているのかを知れば、おそらく納得いただけるのではないかと思います。


それでは混沌にも似た「信徒」をとりまく現状に移りましょう。


檀徒は寺院所属者だから仏教徒と考えても問題なし、か

信徒とは?

「信徒」といった場合、文字の上から考えれば、その意味するところは「(教えを)信じる者」と読み取るのが自然でしょう。そう考えれば、信徒とはその寺院(宗派)の教えを信奉している人を対象にした言葉と考えるのが相応しいように思えます


もちろんそのように信徒を規定している寺院もありますが、しかし、実際はそう単純でもありません。単純でないどころか、信徒という言葉がどのような意味で使われているかは、各寺院によって驚くほど異なっているのが実状なのです。


以下に信徒の具体例をいくつか挙げてみましょう。

  • 先祖のお墓はないが、将来的にそのお寺で葬儀をお願いしたいと考えている人。
  • お寺に対する帰属意識はないが、その宗派(住職)の教えを信奉している人。
  • 地元のお寺を地元住民で護るというような、地縁的関係で護持に協力している人。
  • 法事等は行わないが、護持会費といった金銭的協力はしている人。
  • 定期的に境内の掃除などを手伝っている人。
  • 菩提寺との付き合いはまったくないが、先祖のお墓はある人。


などなど。信徒の例を網羅しようとしても、枚挙に暇がありません。


結局のところ「檀徒ではないが寺院と一定以上の関係にある人」を信徒と呼んでいると捉えるよりほかに、信徒という言葉を包括的に規定することができないのが現状なのです。それはつまり、信徒とはその寺院の実状にあった比較的自由な枠組みで、檀徒ではないが寺院に関わってくださる方々を包括的に対象とする、必ずしも宗教的帰属を必要としない区分となっているということです。


「信徒」がカバーしている範囲は「檀徒以外の関係者全員」ともいえるくらい広大なものなのね


お寺によって「信徒」は必ずしも宗教的帰属を必要としないから、「あっちの檀家で、こっちの信徒」という掛け持ちが可能になってるんだな


ネットではいろいろな情報があり、檀徒と信徒の定義のようなものも散見されますが、それはあくまでも一寺院や一宗派の総論としての見解であり、実際は寺院ごとに解釈と実状が異なっています。


なのでもし檀徒や信徒として菩提寺と新しく関わりを持ちたいという方は、必ずその寺院の住職本人と話をしてみてください。そこでその寺院が檀徒と信徒についてどのように考えているかがはじめてわかります。


また、基準がないのでは困ってしまう、という場合、「檀徒ではないが寺院と一定レベル以上の関係にある人」を信徒と呼んでいる、という見方は、上記檀徒の条件項目として挙げた4項目のうち、4つ目の「寺院の護持に協力する者」に近いと考えることができなくもありません。


少々強引かもしれませんが、「何らかの形で寺院の護持に関わっている方」を信徒と呼んでいるというのが、現状を広く俯瞰した際にいえる唯一の基準のようにも思えます。


関わり方はいろいろだから、信徒が幅広いものになるもは必然なのかもね……ただ混沌だわ




じつは信徒のほうが「濃」の可能性

檀徒と信徒といった分け方をした場合、檀徒のほうがより菩提寺との関わり合いが濃い場合が多いと前述しました。しかし考えようによっては、それは逆なのではないかという見解もあります。


どういうことかと言いますと、まず、檀徒というのは檀家の概念を引き継ぐものであり、突き詰めれば寺請制度という半ば強制的に寺院と関係を持ったことによって生じた「先祖を介する半強制的な離れられない関係」とも考えることができます。


そう考えた場合、はたしてそこに本当の意味での信仰はあるのか、信仰よりも慣例・伝統として繋がっているだけなのではないのか、それならむしろ信徒を「教えを信奉する者」と規定し、純粋に宗派の教えを学ぶ信徒こそが真の意味での「濃」なのではないか、とする見解です。


この見解によるならば、先の檀徒の条件4項目のうち、1項目目の「その宗派の教えを信奉する者」が信徒の絶対条件ということになるでしょう。檀徒と信徒に対する考え方が少しまた異なっていることが、こうした見解の出発点にあるように思えます。


ただし、実際には檀徒でありつつ宗派の教えも篤く信奉している方が大勢いらっしゃることだけは言及しておきたいと思います。要するにこれもまた「檀徒と信徒をどう分けるか」という分け方の話に集約していくのかもしれません。檀徒と信徒をめぐる考え方に終着駅はありませんね。


信徒を「濃」とする解釈は、「檀徒=先祖供養寄り」「信徒=仏法寄り」という解釈なんだろうな

神社の氏子と寺院の信徒は似ている?

たびたびトラブルになることがありますが、神社の氏子というのは必ずしも神道の信仰者というわけではなく、「その土地に暮らしている」という理由だけでも判断されることがあります。


たとえば引っ越しをして新しい自治会に入会すると、自動的にその地域の神社の氏子として対応されるようになったという話を聞いたことがないでしょうか。これは「地域の神様を地域住民で護持していく」というニュアンスによるものですが、信教の自由から考えた場合、やはりトラブルになることがあります。


こうしたケースはなにも神社だけで起きているわけではなく、寺院でも同様に起きています。地元住民ということが主な理由で信徒となっているケースは寺院でも普通に存在し、氏子の件と同様、トラブルに発展するケースもやはりあります。


また、前にも触れましたが、何らかの宗教に所属しており、かつ神社の氏子でもあるという方は非常に多くいらっしゃいます。このことに違和感を覚えない方は、A寺の檀徒でありB寺の信徒でもあるという状況は、氏子のそれと同じ状況のものであると考えることで、理解がしやすくなるかもしれません。


地域によっては、神社や寺院は宗教施設というよりも「地域の公共施設」として認識されていることもあり、あえてそれを宗教と考えることがない方と、神社も寺院も明確に宗教であると考える人の間に摩擦が生じるのは必然ともいえるかもしれません。人はそれぞれ認識も考え方も異なっているので、理解し合うには話合いによって互いを理解し尊重するという姿勢が必須となるでしょう。


田舎と都会とか、世代の違いとかでも考え方は随分と違うだろうね

檀那と旦那

すこし余談的な話になりますが、「ダーナ」にとてもよく似た日本語に「ダンナ」があります。世間一般で「ダンナ」といえば夫を意味する場合がほとんどだと思いますが、昔は奉公人が主人のことを「旦那様」と呼んだりするケースもありました。じつはこの「ダンナ」もサンスクリット語の「ダーナ」と端を同じくする言葉だろうと考えられています。


主人というのは一家の代表者という意味でもあり、これは檀家制度においては施主そのものです。厳密にどこでどう混同されるようになったのかまではわかりませんが、「布施をする主人」のことをダーナと呼び、それがいつしか主人その者を直接意味する言葉に少し変容して世間に定着をした、といったところなのかもしれません。


布施をしないダンナは……ダンナ失格?




自分がどこの寺院の檀家かわからない時

実家から離れ新家に生まれた方の場合、自分の実家がどこの寺院の檀家なのか、つまり菩提寺はどこなのか、または菩提寺があるのかないのかよくわからないといったことも起こりえるかと思います。


自分(の実家)がどこの寺院の檀家なのかを判断する簡単な方法として、先祖代々のお墓がどこにあるかを考えるとわかりやすいかもしれません。つまり、お墓がどこかの寺院の墓地にある場合、実家はかなりの確率でその寺院の檀家であるということ。


お墓は「○○家之墓」と刻字されることが多いように、基本的には「家」の先祖を永続的に祀る場所です。そして寺院の墓地はその寺院の檀家が使用する場合が圧倒的に多いため、実家のお墓がある寺院が菩提寺であり、実家はその寺院の檀家である可能性が高いと考えられます。


しかしながら100%というわけではなく、例外がないわけでもありません。たとえば菩提寺ではない寺院の墓地だけを借りていて、法事などは菩提寺にお願いするというケースもありますので、お墓の場所だけで菩提寺を100%特定することはできません。あくまでも「可能性が高い」判断方法になります。


また、お墓が公共墓地などにある場合も、やはりお墓をもとに菩提寺を判断することはできません。ただしこの場合も公共墓地にあるからといって菩提寺がないというわけでもないのでご注意を。「お墓は家から近い場所(公共墓地等)に建ててお参りをしやすくしたい」と考える方は大勢いらっしゃいますので、公共墓地にお墓があってもどこかの寺院の檀家である可能性は十分に考えられます。


お墓をもとに実家の菩提寺を想定することは可能なのですが、わからない時は実家に確認するのが結局は一番確実ですので、不明な方は早めに確認をしておくことをおすすめします。菩提寺があるのに別の寺院で葬儀をしてしまってトラブルになった、というかなり厄介な話を実際に耳にします。こうしたことにならないためにも、心配な方は早めに確認をしておきましょう。


伝家の宝刀「親に訊く」 ズバッ!