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「億劫」が意味する果てしない時間 【身近な仏教用語】

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「億劫」が意味する果てしない時間【身近な仏教用語】

やらなければいけない仕事があっても、あまり気が乗らずにぐだぐだして時間を無駄にしてしまうようなときがある。
あるいは取り組もうと思っても、その仕事を終えるまでの手間と時間をちょこっとイメージしたら、とんでもなく大変そうで一歩を踏み出す気持ちが急速に萎えて躊躇してしまうようなときもある。
そんな気持ちや様子を「おっくう」と表現することがあるが(若い人には馴染みのない言葉かもしれないが)、この「おっくう」にはちゃんと漢字があって「億劫」と書く。
じつはこの億劫という言葉、仏教の言葉から生まれた仏教用語であることをご存じだろうか。


億劫というのは、要するに面倒くさくて考えるのも動くのも嫌だというような状態のこと。
はっきりと言ってしまえば、やりたくない。でもそんなわけにはいかないから、面倒だけれども仕方なくやる。
そんないい加減な気持ちならやるな! と叱られそうな姿勢だが、そんなぐだぐだな様子を指して「億劫がる」などとも言う。


億劫のもともとの読みは「おくこう(ごう)」だった。
億というのは一十百千万億の「億」で、とても多い数字であることの意味。
劫というのは億よりもさらに大きな数で、極めて長い時間を意味する言葉である。
なぜこれらのように長い(多い)時間(数字)を組み合わせた言葉が、現在の用法ような「面倒」「躊躇」の意味として使用されるようになったのか
これには仏教の壮大な世界観が関係している。

仏教用語としての億劫

仏教では、世界は「生成」・「存続」・「破壊」・「空無」の4つの状態を繰り返しながら存在しているという考え方をするときがある。
そしてこれら4つの時期のそれぞれが1劫の時間的長さを有していると考える
つまり、世界が生成されるのには1劫の時間がかかり、完成された世界は1劫の時間存続し、やがて世界は1劫かけて破壊の道をたどり、破壊されて何もなくなった時間が1劫の間続く。
そしてその後にまた1劫かけて世界が生成されていくという世界観である。
ちなみのこの1巡、生成から空無までの4劫をまとめると大劫という。
たとえとしてはあまりよろしくないかもしれないが、シングルヒット(劫)4本=ソロホームラン(大劫)みたいなものと考えていただきたい。


それで4つの状態の一つひとつの時期の時間、1劫は極めて長い時間なのだが、それがどれほど長いかを仏教では面白いたとえを用いて説明している。
たとえば、四方の長さ、上下の高さが何百kmにも及ぶ鉄の城に芥子(けし)の実を満たし、100年に1度その中の芥子の実を1つだけ取り出し、すべての芥子の実が取り出され城のなかに芥子の実がなくなっても、まだ1劫は終わらないくらいの時間とか。
こんなたとえを聞かされると、何百kmの城壁に囲まれた城一杯に詰まっている芥子の実をすべて取り出すって、そもそもその城に一体芥子の実が何個入っているんだ? と果てしない想像をしてしまう。
そして、砂浜の砂の数を数えるくらい無謀な想像だと気付き、それ以上の想像を断念することが精神衛生上好ましいことを察知して想像を中断する。


たとえのバージョンはほかにもあって、山の裾野が四方何百kmにも及ぶ巨大な石山があって、100年に1度この石山を柔らかな衣でふわりと払い、石山がすべて削り尽くされてなくなっても、1劫はまだ終わらないくらいの時間だというのもある。
柔らかな衣とは、絹のことだろうか。絹の衣で石山を払うって、一体何回払ったら1mm削れるというのか。そもそも、削れるのか、絹で石山を。
100年経てば風化で相当削れるだろうが、そんな現実的な話をしているのではない。
あくまでも、風雨に関係なく衣によって削り終わる時間である。
衣で石山が削れてなくなる時間?
……果てしなさすぎて呆れてしまう。


劫の意味の変容

劫という時間の果てしなさ、あるいは果てしないたとえを持ち出して劫の長さを表現しようとした仏教の大胆さをご理解いただけただろうか。
劫とは本来、上記のような恐るべき時間の長さをいう
これはもう長いとかいうレベルではなくて、あまりにも途方もなく長すぎて、もはや長いのではなく永遠の時間と言ってもいいのではないかとさえ思ってしまう。
「未来永劫」というときの言葉にも劫の字が使われているくらいだし。


つまり億劫とは、当初の仏教用語としては果てしなく長い時間を指す言葉であったものが、やがてその時間を想像するだけでやる気を失うというような、億劫を想像したときの気持ちや様子を意味する言葉へと変容していった言葉なのである
劫もの時間がかかることなど、とても取り組めない。やる気になれない。
そうした気持ちがもとになり、転じて物事を面倒に感じたり躊躇したりする気持ちを億劫と表現するようになったというわけだ。


楽しい時間は驚くほど早く過ぎる。
逆に、つまらない時間はじれったいほどに進まない。
小学生のとき、休み時間に外に遊びに行きたくて授業が早く終わらないか教室の時計を見続けていたことがあったが、針は動いているはずなのに一向に時間が過ぎる様子がなかった。
それと同じようなもので、気が乗らないことや、やりたくないことをしなければいけないとき、その時間をやたらと長く感じてしまうのはどうしようもない事実なのである。
そうした時間の長さを想像して、「はぁ」とため息をつき、どうにかこうにか取り組みはじめるのだが、それはあたかも億劫のごとき長さに感じられる時間なものだから、面倒なことは億劫なわけだ


劫もの時間を要するもの……。
想像すると恐ろしくなり、想像を止めたくなるのではないだろうか。
それが億劫なのである。