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「世知辛い」ってどういう意味?【身近な仏教用語】

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「世知辛い」はもともと仏教用語

なんというか、世知辛い世の中である。
普段の会話で耳にする機会は少ないが、文字やセリフとしてはときどき見聞きする「世知辛い」。
「よちがらい」ではなく、「せちづらい」でもなく、「せちがらい」。
間違えると恥ずかしい。


この世知辛いという言葉を聞くと、なぜか砂ばかりの乾燥しきった砂漠を想起してしまう。
暮らしにくさを感じさせる言葉だから、生きることが苛酷な環境である砂漠を連想してしまうのか自分でもよくわからないが、なぜか不毛の大地をイメージしてしまう。
打算の都会と不毛の砂漠ではだいぶイメージが違うはずなのだが……。自分でもよくわからない。


まあ、イメージは各人それぞれ異なれど、世知辛いと言われればなんとなく生きづらい世の中を指しているのだろうということはわかる。
しかし、この「世知辛い」という言葉がどのような意味なのかと、あらためて問われると返答しにくいのではないだろうか。
その理由の1つはもしかしたら、「世知」という言葉が仏教用語であるためかもしれない。


「世知辛い」の意味

世知辛いという言葉の現在の用法を一言で説明すれば、これはおよそ「世渡りがしにくい」というほどの意味として使われている。
あるいはもっと単純に、「勘定高い」「ケチ」「せこい」という意味としても使われる。


ただ、なぜそのような意味になるのかは意外と知られていない。
この世知辛いという言葉はじつは仏教用語で、「世知」が「辛い」という2つの言葉から構成されている。仏教用語なのは「世知」のほう。


それで、世知とは「世俗の知恵」を意味している。
世俗の知恵とは、早い話が処世術のことで、どうやったら巧く生きていくことができるか、そのような世渡りの知恵を世知という。


一方の「辛い」であるが、これは唐辛子のような辛さを意味するのではなく、「つらい」という感情を指すのでもなく、「割合が多い」「傾向が強まる」というような、前の言葉を強める言葉


つまり世知辛いとは、「処世術に長けた人」という意味が「勘定高い人」をも意味するようになり、そうした傾向が強まった「勘定高い世の中」という派生の意味として、現在のように使用されているのだ。
自分が利を得るために画策し、そのような計算高い人が多ければ生きづらい世の中だと感じる機会は多くなりそう。
なるほどたしかに、世知が辛い世の中は、生きづらい世の中に思える

世知と仏智

ちなみに、世知の反対は仏の智慧で、これを仏智(ぶっち)という。世知と仏智
世知も仏智も、どちらも頭の働きであることに違いはないが、どのような頭の働きなのかという点において両者は異なっている。
たとえば「賢い」という言葉の解釈で考えてみるとわかりやすいかもしれない。


あるところに人を騙すことで金儲けをすることのできる方法を見つけた人がいたとする。
その方法を実行すれば確実に金が得られる。
すると、こうした人を指して「ずる賢い」と思う人があらわれる。
狡猾、卑怯という意味での「賢い」であるが、それでもやはり頭は賢いのだと。


損得勘定が素早い、頭の回転が速い、出し抜く機会を逃さない。
しかしそういった種類の「賢さ」は、文字どおり損得勘定が素早く、頭の回転が速く、出し抜く機会を逃さないのであって、賢いのではない。賢者なのではない。


では賢いとは何かと、これを考えるのが仏智である。
人を騙したり、出し抜くことで金を稼ぐことができたとして、そうして金を得ることが本当に賢いことなのか。
それは賢いのではなく、ただ卑怯なだけなのではないか。
騙して金を得てはたして幸せなのか。それを幸せと呼ぶのか。それは欲を満たしたのとは違うのか。欲と幸せは一緒なのか、違うのか。


世知が損得について考える頭の働きであれば、仏智は損得の真偽について考える頭の働きということができるだろう。
あるいは、幸せという名の欲を得ようとしているのか、幸せという名の正しさを見極めようとしているのか、こうした視点で両者を区別することもできるだろう。


社会は甘くないと人は言い、大人の世界は甘くないと人は言うけれど、まさか辛い社会を歓迎しているのではあるまい。
どちらかといえば私は、ショートケーキのように、世知甘い世の中に暮らしたいと思っている一介の甘党だ。