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ブッダが教えてくれたこと ~四聖諦と八正道~

四聖諦,八正道

ブッダが教えてくれたこと ~四聖諦と八正道~

仏教とは「仏の教え」のことです。「仏」というのは紀元前5~6世紀のインドに実在したゴータマ・ブッダ、いわゆるお釈迦さまのことを指していますので、「仏の教え」は「ブッダの教え」と理解することができます。


ちなみに、「ブッダ」という名前は「(真理に)目覚めた者」という意味で、悟りを開いた後の名前。それまでの名前、ブッダの本名は「ゴータマ・シッダールタ」でした。ゴータマさんは真理に目覚めたがゆえに、ブッダという名前で呼ばれるようになったのですね。


それで、肝心の「ブッダの教え」とは何なのでしょうか。ブッダは一体何を教えてくれたのでしょうか。それを知ることが、まさに仏教を知るということと言えるでしょう。


4つの真理

ブッダの教えは多岐にわたりますが、結論から言いますと、教えの中心にあるのは4つの真理四聖諦ししょうたい)です。その4つとは……

  1. 生きていると苦しいことがあるよね。(苦諦くたい
  2. そうやって苦しむのには原因があるんだよ。(集諦じったい
  3. でも、苦しみがない状態(安楽)というのもちゃんとある。(滅諦めったい
  4. 安楽に生きる方法も、もちろんわかっている。(道諦どうたい


これだけです。何も難しい話はありません。


しかしこれを、「ブッダが説いたのは苦諦、集諦、滅諦、道諦の四聖諦である」と、いかにも専門的な感じで書いてしまうと、途端に小難しい話に聞こえてくることでしょう。これではじつにもったいない。


ブッダが教えてくれたことは、私たちが生きる上で極めて身近な、誰も避けることのできない事柄に関するものばかり。私たち1人ひとりが当事者である事柄について語っているにも関わらず、それをまるで学問かのように学ぼうとすると、話は勝手に難しいものへと変わってしまいます。しかも難しいばかりか、実生活と離れた特別な話のように感じてしまいかねません。


実際、そうではありませんか? 仏教が自分に関係することだと思っている方が、この日本に一体どれくらいいるでしょうか。


仏教は「仏教学」ではありません。机に向かって学ぶものではなく、日常生活のなかで実行していくものです。その意味で、仏教は座学ではなく実技科目であると表現することもできるでしょう。


そうした実技であるところの仏教が教えてくれた4つの真理について、これから1つひとつ確認していきたいと思います。

仏教は仏教学ではない

生きていると苦しいことがあるよね

ブッダが説いた真理の1つ目、「生きていると苦しいことがあるよね」。この話をするには、そもそもブッダは何に苦悩したのか、どういった事柄を問題としたのかを知る必要があります。


まず、ブッダが問題としたのは、「避けることのできない苦しみ」に関することでした。


苦しみといっても、避けることが可能なものと不可能なものがあります。避けることができるものは、どうにも苦しかったら避ければいい。ブラック企業に入社してしまったのなら、耐えられなければ辞めればいい。大好物のナポリタンの中に嫌いなピーマンが入っていたら、ピーマンだけ残すという選択肢を選ぶことだって可能です。もちろん全部食べたほうがいいでしょうが、残すことを選択することが「不可能ではない」ということが重要。


避けることが可能な苦しみを、ブッダは主たる問題としたのではありません。ブッダが問題にしたのは、生まれること、病気になること、老いること、死ぬこと。そういった、人生において避けることのできない、もっと言えば、自分の意思ではどうすることもできず、思ったようにならない事柄に関することでした。


さあ、この思ったようにはならない事柄について、どのような対処が可能でしょうか。たとえば人間は誰しも老いを避けることはできません。その避けることのできない老いを、ブッダは苦に感じていました。老いたくない。ずっと若いままでいたい。でも体は着実に老いていく。老いは嫌だ。苦だ。


これが1つ目の真理です。あえて真理だなどと大袈裟にいうほどのことではないと思うかもしれませんが、とにもかくにもこの「苦がある」という発見からブッダの教えは始まります。つまりブッダの教えは、「避けることのできない苦悩から脱する教え」なのです。


若くありたいと思っているそこのあなた。老いを苦に感じているそこのあなた。ブッダの教えが意味を持つのは、あなたのような方なのです。そう考えるだけで、仏教というものがぐっと身近なものに感じられはしないでしょうか。

人生には苦がある

そうやって苦しむのには原因があるんだよ

避けることのできない苦悩と対峙し、もがいたブッダは、出家に活路を見出します。ある日城の門の外で目にした清々しい出家者の姿に感銘を受けた、というのが出家の理由でした。よほど苦悩から離れたような清々しい姿をしていたのでしょうね。その出家者は。


29歳でそっと城を抜けだし出家をしたブッダは、ヨーガを学んだり、苦行に身を投じたりと、当時インドで流行っていた苦悩脱出方法に精力的に取り組みました。しかしヨーガをマスターしても、苛烈な苦行で肉体を痛めつけても、苦悩は消えません。苦行では頑張りすぎてあやうく死ぬところでした。


ちなみに苦行というのは、太陽をずっと見つづけるとか、ずっと片足で生活するとか、自分の肉体を痛めつける行いのことです。インドには、苦しみというのは肉体が元気だから起こるのであって、肉体が衰弱すれば苦も衰弱するという思想があったため、こうした苦行が存在していました。そしてあらゆる苦行のなかでも究極的なのが、断食。ブッダはこの食を断じる苦行をして、あやうく死にかけました。


死ぬ寸前まで体を衰弱させても苦が消えない。その事実を知ったことで、ブッダは6年にもおよぶ苦行に見切りをつけます。そして坐禅瞑想に挑みます。「悟りを開くまでは組んだ足を解かない」という固い決意もします。そして坐禅を続けて8日目、明けの空に輝く金星を見た時、ついに悟りを開いたのでした。


さて、では一体ブッダは何を悟ったのでしょうか。「仏の教え」でもっとも重要なのはここです。


ブッダは悟った事柄を時間をかけて吟味し、十分に論理的といえるくらいにまとめ、これは確かに人の役に立つと判断した後、人々に説いていきました。そこで説かれた苦悩する原因を要約すると、次のようになります。


「老いることが嫌だから、人は老いることに苦を感じる。だから苦の原因は老いることにあるのだと、普通人は思っている。しかしそれは間違いだ。


苦という感情は、あくまでも自分の心から生じている。老いは苦の対象ではあるが、老いがそのまま苦なのではない。老いたくないという気持ちは、ずっと若いままでいたいという意味であり、苦という感情は若いままでいたいのにその思いが叶わないことから生じている。つまり苦は心から生じているのであって、老いから生じているのではない。したがって苦の原因は、老いたくないという、若さに執着する自分の心にこそある


苦の原因は老いではなく、若さに執着する心だった、というのがブッダの結論であり、2つ目の真理です。苦は思いが叶わないから生じる感情だったのです


人間、なかには老いることが苦でない人もいます。子どもはむしろ早く大人になりたいと、老いを求める気持ちすらあります。老いたくない人がいる一方で、老いたい人がいる。この事実こそが、老い自体が苦なのではないことの証左と言えるでしょう。何事も、厭うから苦になるのです厭わなければ、苦になりません


言われてみれば簡単な真理ですが、自分の心に原因があると気付くのは相当に困難なことだったのではないかと思います。自分が不満を抱くとき、その原因は自分以外の外側にあると思ってしまいがちですからね。


もし老いの苦しみというものの原因が老いそのものにあるのだとすれば、そこに救いはありません。人間が老いない方法を編み出さない限り、老いから逃れる手立てはなく、したがって誰もが老いの苦しみを味わうことになるからです。


しかし実際には、原因は心のほうにある。これは救いです。なぜなら、自分の心に原因があるというのなら、自分の努力次第でその原因を取り除くことが可能となるから。自分に原因がある、という言葉をマイナスに受け取ってはいけません。これはむしろプラスなんです。自分のことなら、自分でどうにかすればいいのです。


人生には苦があり、その苦には原因がある。これで前半2つの真理が示されました。後半はいよいよ苦の克服に関する真理についてです。

原因究明

でも、苦しみがない状態(安楽)というのもちゃんとある

老いに苦を感じる人がいる一方で、老いを苦に感じない人もいるということを先ほど書きました。
老いを苦に感じない人は、では、老いをどう感じているのでしょうか。老いを楽しんでいる? 老いを喜んでいる? 


もちろんそのような方もいるかもしれませんが、「苦しみがない状態(安楽)」というのは、もっと何気ないものです。楽しみなのでも、喜びなのでもなく、意識が特には老いに向かないということ。老いを放っておく、というニュアンスに近いでしょうか。老いを「快」とも「苦」とも思わないのです。


老いたいとも思わなければ、老いたくないとも思わない。求めることもせず、厭うこともせず、ただ老いを老いとだけ感じる。改めて思うとしたら「自分、老いたな」で、おしまい。事実を事実のままに受け止めるという、ただそれだけのこと。この傾くことのない平穏な心こそ、苦悩から離れた安楽の境地なのです。


よく誤解されやすいのですが、安楽というのは快楽のことではありません。快楽はブッダが離れることを薦めたものです。快楽に浸れば、快楽という感情が心に湧きます。そして引っ張られるようにして、快楽を求める心も生じてきます。ブッダに言わせれば、何かを求めるのはもう苦の始まり。たとえ「快」が得られようと、求めることから苦は生じるのです。求める心と得られない苦しみは表裏一体。必ずセットで心から湧き起こります。


安楽というのは、そのどちらの心からも離れたもの。波立つことのない水面のように、穏やかなもの。心に執着を生じさせることのないように生きている時こそが、とりもなおさず安楽な心であるということです。


だからこの境地は達人のみが達成することができるような特別なものではなく、誰もが歩くことのできる境地だとブッダは説きました。しかし、何もせずしてその境地で生きることはできません。それにはちゃんと方法があるのです。


ブッダはその方法を明確に説きました。にも関わらず、多くの人がここで間違いを起こします。ブッダが説いた教えを学び、学びさえすれば苦悩から離れることができると考えてしまうのです。


これは間違いも間違い。どれくらい間違いかというと、ダイエットの方法を学んで、それでダイエットができたと思うのと同じくらいの大間違い。ダイエットの方法を学んで、その方法にそって生活してこそ、はじめてダイエットをすることができますよね。ダイエットの方法を知っただけでダイエットができたと考える人はいないでしょう。


しかしなぜか、仏教だとこの勘違いは普通に起こります。仏教を学んで、それで仏教を学び終えた気になる方は少なからずいるのです。スタート地点に立っただけなのに、もうゴール地点に立っているような思い込みをしてしまっているとしたら、それはとんでもない勘違いだとは思いませんか?


この誤解を起こさないように気をつけ、仏の教えとは行じるものだという意識のもと、ブッダが教えてくれた4つ目の真理、安楽に生きる方法を見ていきましょう。

ダイエット

安楽に生きる方法も、もちろんわかっている

ブッダが教えてくれた安楽に生きる方法。それは具体的に、次の8つの項目を生活のなかに取り入れることです。

  1. 我見を離れて物事を判断する(正見しょうけん
  2. 本当に正しいことは何かを考える(正思惟しょうしゆい
  3. 言葉を大切にする(正語しょうご
  4. 行いを丁寧なものにする(正業しょうごう
  5. 生活を正す(正命しょうみょう
  6. 努力することを止めない(正精進しょうしょうじん
  7. 集中して取り組む(正念しょうねん
  8. 坐禅をする(正定しょうじょう


以上の8つの項目が、ブッダが安楽に生きるための方法として示した教えの内容です。これを仏教では八正道はっしょうどうと呼んでいます。


八正道は仏教の奥義(まったく隠していないので表義?)ともいえるものなのですが、特段真新しいことを言っているわけではないためか、どうも軽視されやすい傾向にあります。……うーん、どう考えたってもったいないですよね。これがまさに仏の教えの中心の中心にあるものなのですから。


もっと難解な、『般若心経』で説かれているような「くう」の思想とかのほうが好まれるんでしょうか。そういったものは八正道の正見や正思惟に含まれるもので、八正道はもっと間口の広いものなのですが。


八正道のそれぞれの項目について、細かく話すことは多々あるのですが、それはまた別の機会にしましょう。


それと、あまり知られてはいませんが、ブッダはこれら4つの真理に対するアプローチはそれぞれ異なると説いています。


「生きていると苦しいことがあるよね」という苦諦の真理に関しては、よく知りなさい
「そうやって苦しむのには原因があるんだよ」という集諦の真理に関しては、よく離れなさい
「でも、苦しみがない状態(安楽)というのもちゃんとある」という滅諦の真理に関しては、よく体感しなさい
「安楽に生きる方法も、もちろんわかっている」という道諦の真理に関しては、よく行いなさい


苦しみがあるという真理は、「知る」という方法で大丈夫。しかしその後からは違います。決して「知る」というアプローチを説いているのではありません。


苦の原因、つまり執着を起こす心が苦の原因であるという真理は、そのメカニズムを知ることが解決につながるのではなく、実際に執着から離れてみることが重要だと説きます。安楽の境地については、実際にその境地に至ってみることが安楽を理解する一番の方法だと説いています。そして安楽にいたる方法は、その方法を学んだり知ったりすることが重要なのではなく、実際に行うことが肝要だとしています。


つまり八正道は、そのように生きることではじめてわかる種類のものだということ。実際にダイエットをするからダイエットになるのと同じことですね。


八正道という、たったこれだけのことで老いや死の苦が消えるものかと訝る方こそ、取り組んでみたあとには別の感想を持つことと思います。または、人間は頭で物事を考えたり感じたりしていると思っている方ほど、身体が心に及ぼす影響力の大きさを知った時には驚くことでしょう。身が調和すると心も調和してくるという感覚は、実際に行動しないことにはわかりようがありません。泳いだことがないのに、泳いだ後の感想は持ちようがないのと同じです。


どうしても老いや死が厭わしいと感じ、どうにかして苦を脱して楽になりたいと思うなら、まずは八正道をベースに生きてみることをお薦めします。ブッダの教えにどんな意味があるのか、その結論を出すのは、実際に体験してみた後からでも遅くはないでしょう。


仏教を学ぶということは、教えにそって実際に生きてみるということなのです。

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