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【禅語】 松樹千年の翠 - 変わり続けるからこそ変わらない -

松樹千年の翠

【禅語】松樹千年の翠(しょうじゅせんねんのみどり)

秋。
山の木々が紅葉の色付きを増し、ドングリなどの木の実が落ち、賑やかな装いとなる季節。


全国各地にある紅葉スポットには多くの観光客が足を向ける。
やがては散りゆくその前に、美しく身を色付かせた木々を見るために。
人に誉められたくて木々は紅葉するのではなく、そこになんら作為がないからこそ、人は紅葉する木々の美しさに見惚れるのかもしれない。


見頃というものが存在する木々はスポットライトを浴びることができるが、反対に見頃のない木々は寂しいものである。
紅葉でなくても、たとえば春の桜だとか、夏の百日紅だとか、その時々でしか愛でるのことのできない木々は多い。
それに比べて常緑樹の多くは、一年を通してほとんど変化がない。


ずっと緑のままで、姿を変える時がないから注目を浴びる旬というものもない。
華やかさがない。
なんだか損な役回りにも感じられる。


変わらない姿

しかし見頃がないとは、逆から考えれば常に見頃なのだと考えることもできる。
そうした視点から生まれた禅語が「松樹千年の翠」。


松は夏の猛暑のなかでも、冬の吹雪のなかでも、その針葉を天へと向けて変わらずに佇立している。
それはあたかも、時代や流行に流されることのない確固とした「自分」を持った存在のように感じられる。


移ろいやすい世の中にあって、黙とした不変の緑を保ち続ける松。
そんな松の姿に節操と生命力を見出し、寂然として佇む風格を讃えたのが「松樹千年の翠」という禅語である。


秋が過ぎ、葉の落ち果てた落葉樹のなかで、しかし松の緑は変わらない。
人の真価があらわれるのも、そんな冬のような逆境や苦境に立った時


葉を落とすように屈っしそうになるなか、それでもすっくと立ち続けることのできる人は、松のような不変の強さを持った人
重たげな雪が積もっても、やがてその雪は陽の光によって融けていく。
春がくることを信じ、じっと待ち続けることができる強さこそ、松の強さである。


年月を越えて変わらずに緑である松は、いつも変わらないようでいて、実際には生え代わりを続けている。
古くなった葉は茶枯れて散り、春には萌黄色の新芽が伸びる。
まったく変わらなければ、それは松ではなくて偽物の造花。
目立たなくても、松の内では活き活きとした躍動が続いているのである。


常に変化を続けることで、松は不変の姿を保っている。
変わらないということは、変化をしないということとはまた少し違った概念ということなのだろう


伝統芸能の世界では、伝統を継承していくことが重要な意味を持っている。
禅の世界もまた然り。


そのような不変の部分というのは、機織りでいうところの縦糸。
その縦糸に時代という横糸を通して、「今」という布を生み出していく。
変わらない縦糸があるから、どんな横糸を交わらせても美しい「今」が編まれていく。


とても重要な縦糸であるが、縦糸ばかりでは布にはならない。
もちろん横糸ばかりでも布にはならない。
現代という横糸を、長年にわたって裏打ちされてきた縦糸に交わらせて折り込むことで、はじめて美しい布が生まれてくる
松の不変の姿を観るとき、そこに縦糸と横糸の関係を見出さずにはいられない。


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