【禅語】百尺竿頭に一歩を進む(ひゃくしゃくかんとうにいっぽをすすむ)
長い長い竿(さお)のてっぺん。
もうこれ以上先がないというところまで上り詰めた。
自分が一番だ。わっはっは。
そんな時は驕るのではなく、「百尺竿頭に一歩を進む」。
百尺竿頭とは、30メートルもある長い竿の先端のこと。
転じて、修行を極めた境地を指す。
そしてその先端に到って、さらに一歩を歩み出してみなさいというのが、この禅語の説くところ。
足場がないからこれ以上先へは進めない。
進んだら、真っ逆さまに落ちてしまう。
それなのにこの禅語は、これ以上進むことができないというところに到って、さらに一歩進んでみなさいと、人を試してくる。
そんな無茶な……。
竿の先まで上り詰めたとき、そこでどんな一歩を踏み出すのか。
この無茶な禅語にどうやって答えるか。
何かを達成してからが、人生の本当の見せ場である。
ランナーで考えてみると
走り続けてきたマラソン人生。
引退を賭けた最後のオリンピックの舞台で、ついに悲願の金メダルを摑んだ。
これまでの血の滲むような努力が報われた。
これ以上の喜びはない。
もうこれ以上求めるものはない。
でも、ゴールしたその足を一歩踏み出せば、また新しい一歩がはじまる。
その一歩をどこに向けるのか。
焦点はそこである。
たとえば、今まで上ってきた道を、今度は反対に下りていってみるのはどうか。
後輩の指導にあたり、自分が知り得たことを伝えるのも新しい一歩である。
もしくは竿の先で、上がってくる途中に経験したものを反芻してみるのもいい。
一度ゆっくりと振り返って、静かに思惟するのも一歩。
あるいは別の竿に飛び移ってみるのだって面白い。
飛び移った全く新しい竿をまた上へ上へとのぼってみるのも、これだってもちろん新しい一歩。
別に、一歩に正解があるわけではないのだ。
自分なりの一歩を踏み出せば、それでいいのである。
ゴールしたのだと錯覚し、その場にとどまってさえしまわなければ。
人が正しく成長している時というのは、「自分はまだまだだ」と思えている時。
上って上って上り詰めた。
もうこれ以上先はないと思ってしまった時が、成長の止まる時。
上ばかり見ていては見えないものが、世の中にはたくさんある。
だからゴールはチェックポイントのようなもの。
一つの区切り。
終わって、また新しい次がはじまる。
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