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禅の視点 - life -

幸福とは? 自分とは? 自由とは? 人生とは? 心を満たす入口探し、禅エッセイ

【禅語】 慈眼 ~褒めて伸ばす? 叱って伸ばす?~

20170302092247


【禅語】慈眼(じげん)

慈眼という禅語がある。
この禅語を頭に想い浮かべるとき、私はどこかの書家が言ったという次の言葉を想起する。
人が書く字には必ず良いところがある
どんな字にも良いところが必ずある
子どもであっても、大人であっても、それぞれに良さがある。
たとえどんなに下手な字でも、その字のなかに良さを見て取ることができなければ、書家として本物ではない。
批判ばかりしているうちは、到底本物でない」
正確な言葉は知らないが、そのようなことを言った書家がいたそうだ。
住職であり能書家でもある師匠から教わった。


小学生くらいの子の書道の腕前を披露するため、半紙を壁にびっしりと貼り連ねた書道展などを見ていると、なるほどねえ、その言葉の意味がよくわかるような気がする。
子どもの書く字は、どれもまだまだ未完成。
あらゆる観点から見て完璧な字を書く子などいない。
でも、きれいな字でなくても、線に元気があったり、力強かったり、丁寧だったり、バランスがよかったり、あるいはその字の意味がよく表現されていたり、いいなと思うことは確かにある。


ここはこう直したほうがいい。
あそこはこうやって直したほうがいい。
そういう改善点を探す視点から書を見なければ、字はなかなか上手くならないのかもしれない。
けれども「この横線は勢いがあっていい」とか、「とめが丁寧でいい」とか、良いところを探す視点から1人ひとりに声を掛けることができなければ、子どもは面白くないだろう。
「好きこそものの上手なれ」という格言があるが、楽しく物事に取り組めることは確かに上達の近道であり王道だ。
そんな視点で書を見る人、子どもに声を掛ける人は、きっと慈しみの眼を持った人に違いない。
その眼を、禅では慈眼とよぶ


「どんな字にも良いところが必ずある
子どもであっても、大人であっても、それぞれに良さがある」
子どもの字を見て「下手だな」とだけ思っているうちは、きっといつまで経っても三流の域を出ない。
これは自分への戒めとして忘れないでおこう。

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企業でもスポーツでも職人の世界でも、どんな分野でも後輩を育てることは重要な仕事となりえる。
その際、後輩をどうやって育てるか。
褒めて伸ばす」「叱って伸ばす」という2つの言葉がある。
人間にはそれぞれタイプがあって、大別すればそのどちらかの方針が合っているのだと言われるが、「叱って伸ばす」ということが本当にあり得るのかどうか、私には少し疑問。


叱って「鍛えられる」ということはあるだろうが、本当に伸びるのだろうか。
叱るとは、強度を増すために対象をぎゅっと縮めるようなはたらきなのではないか。
ちょうど、小学生が書いた書道の文字の良い点を見るのが「褒めて伸ばす」であり、悪い点を見るのが「叱って鍛える」に相当するように。
褒めれば字の器は拡張され豊かに育ち、叱れば字は収斂し整えられていく。
人が成長する過程も、まさにこの拡張と収斂の連続なのではないか。
両方を使い分けてこそ、人は正しく成長する。
ただ、伸びる(拡張する)というのは、あくまでも褒める(肯定する)ことでしか生まれないような気もする。
特に相手が子どもの場合は。


自分の経験と照らし合わせると、その思いは一層強まる。
小さな頃、私は親から褒めてもらうことがうれしかった。
小学校で描いた絵は、コンクールはおろか、クラスのなかでも目立ってよい評価を受けなかったが、親はとても褒めてくれた。
玄関や居間の壁に絵を飾り、いつでも眺めることのできるように、その絵たちに居場所を与えてくれた
居場所を得たのは、絵だけではなかった。


ここをこうしたほうがいいんじゃない? というようなアドバイスを受けたことも時にはあったのかもしれないが、そのような記憶は一切残っていない。
ただ褒めてくれたのが嬉しく、飾ってくれたのが嬉しく、そして親が嬉しそうな表情をしていることが嬉しかった


結果、私の画力は鍛えられることなく小学生程度で止まっているが、そのことに些かの未練もない。
それ以上に、私は自分を自分で認めることのできる自己肯定観のようなものを得た。
のびのびと伸びたのである。
それは、何ができようと、何ができまいとに関係なく、自分の価値は誰であっても計ることができず、平凡なことが平凡なままでものすごく特別なことというような、根拠のない自己肯定であった。
この自己肯定観の礎は何なのかと探ると、どうしてもアレとしか思えないのである。
親の慈眼


一般に『観音経』と呼ばれている『妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈』というお経の最後のほうに、
「慈眼視衆生 福聚海無量」
(じげんじしゅじょう ふくじゅかいむりょう)
という一節がある。
慈しみの眼で人を視る、すると大海のように無限の福が集まる
そんな意味の一節である。


なるほど。
批判の眼で視るのではなく、人の良さに眼を向けるような「慈しみの眼」で人を視れば、世界は福で包まれるのかもしれない。
自分がまさにそうだった。
何を見るか、どこを見るか、どの眼で視るか
人が自分を無条件に肯定できるのは、じつは身近にいた誰かの慈眼によるものなのかもしれないと、のんびり考えるきっかけになりえる、素敵な禅語だ。