【麻浴宝徹】扇であおいでこそ風は風になる - 禅僧の逸話 -
永平寺を開いた道元禅師の著書と言えば、何といっても『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』が有名。
その『正法眼蔵』のなかに「現成公案(げんじょうこうあん)」の巻というのがあり、そこに麻浴宝徹(まよく・ほうてつ)禅師に関する逸話が記載されている。
風にちなんだ、こんな話だ。
夏の暑い日。
麻浴宝徹禅師は扇をあおいで涼んでいた。
するとそこに1人の雲水がやってきて、宝徹禅師の姿を見てこんな質問をした。
「風というのはどこにでも存在しています。
風が存在しないところはありません。
それが風というものの性質です。
それなのになぜ和尚さんは、すでに風が存在しているにも関わらず、さらに扇を使って風を起こそうとするのですか?」
宝徹禅師が答えた。
「お前さんは、風というものがどこにでも存在していることを知ってはいても、風がゆき渡らないところはない、ということがまだ解っておらんな」
しかし雲水は宝徹禅師の言葉の意味が理解できなかったので、説明を求めた。
「風がゆき渡らないところはない、とはどういう意味でしょうか?」
再度質問を受けるかたちとなった宝徹禅師だが、次は何も答えなかった。
代わりに、パタパタと扇をあおいでみせた。
すると雲水はハッと悟るところがあったようで、宝徹禅師に向かって礼拝をしてその場を辞したのだった。
これが『正法眼蔵』現成公案にでてくる宝徹禅師の逸話の概要である。
宝徹禅師は扇をあおぐことで何を伝えようとしたのか。
また雲水は物言わぬ宝徹禅師の回答から、何を感じ取ったのか。
ちんぷんかんぷんの禅問答のような逸話だ。
道元禅師の悩み
この宝徹禅師の逸話は、じつは道元禅師が出家をしてから悩み続けてきた疑問と密接に関係している。
曹洞宗の僧侶のあいだでは知らない者がいないくらい有名な話だが、道元禅師は出家をしてしばらくしたころ、ある経典を読んでこんな疑問を抱いた。
仏教では、人は誰もが生まれながらに仏であると説いている。
それならばなぜ、あえて修行をしなくてはいけないのか。
生まれながらに仏であるなら、修行をしなくても仏なのだから、修行をする必要がないではないか。
それが道元禅師の抱いた疑問であった。
道元禅師はこの問いを様々な人物にぶつけて疑問を解消しようと試みるのだが、結局誰も納得のいく答えを話してはくれなかった。
そこで道元禅師は海を渡って中国へと渡り、修行をすることを決意する。
そして中国に渡った道元禅師は、如浄禅師という自らの師となる人物と出会い、そのもとで修行を積むなかで、疑問の答えを見つけていった。
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空気と風、人と仏
宝徹禅師の逸話に登場する「風」というのは、つまり人のなかにある仏のことで、風がどこにでも存在するとは、誰のなかにも仏が存在するということを意味している。
雲水は風というものを題材に、道元禅師と同じ問いを宝徹禅師にぶつけたというわけだ。
どこにでも風があるのであれば、なぜあえて扇をあおいで風を生じさせる必要があるのか。
誰もが仏であるのならば、なぜあえて修行をして仏になる必要があるのか。
そんな必要などないではないか!?
雲水が言いたいのは、そこのところである。
問題の核心に迫ろうとする雲水に、宝徹禅師は無言で答えた。
扇をあおいでみせたのである。
パタパタと。
それで雲水は何かを悟り、納得した。
一体何を悟ったのか。
もちろんその雲水が実際にどう解釈して何を悟ったかは、部外者の窺い知るところではない。
ただ、ある程度推測することはできる。
風があたりに充満していたとしても、あおがなければ涼しくはならない。
扇風機だって、スイッチを入れなければ邪魔なオブジェと化してしまう。
誰もが仏であったとしても、仏としてのはたらきを発揮しなければ、真に仏とは言えない。
扇はあおいで初めて扇として存在するのであり、扇風機はスイッチを入れて初めて扇風機として存在する。
宝徹禅師はそういうことが言いたかったのではないだろうか。
修証一如
道元禅師はのちに、修行と悟りの関係を、修証一如(しゅしょういちにょ)とか修証一等(しゅしょういっとう)という言葉で表現するようになる。
普通、修行と悟りの関係といえば、「修行の結果、悟りを得る」と考えがちだが、道元禅師に言わせればそうではない。
修行と悟りは常に同時に起こる。
修行をするその瞬間に悟りがあり、修行をやめたその瞬間に悟りも消える。
それが修証一如という言葉の意味である。
つまりこういうことだ。
たとえばここに仏がいるとする。
しかしこの仏、毎日寝転んでばかりで、ぐうたらを極めた生活をしている。
この何もしない仏というのは、はたして本当に仏なのだろうか。
道元禅師の答えは、NOだ。
それは仏ではない。
なぜか。
仏とは、仏として生きている人を指す言葉であって、固定的な存在を指す言葉とは考えないからである。
つまり、仏という存在は本来どこにも存在せず、仏の行いをする人を仏と呼ぶだけ。
行為によって仏となるのであって、先に仏が存在するわけではない。
それが道元禅師の修行観だ。
だから何もしない仏というのでは話が逆で、仏とよばれるような行いをするから、「あの人は仏さまのような人だ」となるのである。
最初から仏が存在するのではない。
先に存在するのは仏ではなく、行為。
仏の行為があって、そこに仏の姿を垣間見る。
だから修行(行為)と悟り(結果)は常に同時に起こる。
風も同じで、風自体は雲水の言うようにどこにでも存在する。
しかし、全くの無風であった場合、確かに空気は存在しているが、風が存在しているとは言い難い。
風がないとき、風をゆき渡らせるにはどうすればいいか。
あおげばいい。
風は、風としての働きを有するときに風となる。
風のはたらきを有する以前、つまり無風の風は、風ではなく空気だ。
どこにでも存在している風ではあるが、風としてのはたらきを発揮してはじめて、本当の風となる。
人と仏の関係、修行と悟りの関係、空気と風の関係は、すべて似ている。
扇をあおいだのは、風のはたらきを発揮させてみせたということなのだろう。
はたらき(行為)によって、風は風となり、仏は仏となるのだぞと。