【禅語】柳は緑 花は紅(やなぎはみどり はなはくれない)
人は誰しも、自分の眼鏡をかけて生きている。
と、そんなことを言うと視力の良い人から反論を受けるだろうか。
「私は眼鏡をかけてませんけど」と。
ところがそのような人もちゃんとかけているのである。
一度、鏡で自分の顔を確認してみてはいかがか?
どうだろう、眼鏡が確認できるのではないだろうか。
えっ? かけていなかった?
そうか……。
眼鏡をかけていなかったか……当然だ。
鏡で見ても、この眼鏡は鏡に映らないのだから。
この世界には、目に見えず、手でもさわれない、形のない眼鏡というものが存在する。
それが「思い込み」という名の色眼鏡である。
危険な思い込み
禅ではこの色眼鏡をはずせと言う。
思い込みを所有するなと言う。
色眼鏡とは少々古風な言い方なので、これは今風にサングラスと言ってしまおう。
この色付きのサングラスをかけて辺りの景色を眺めると、風景の色合いがまるで違ってくる。
赤色の眼鏡をかければ、透明な水も赤く見える。
緑色の眼鏡なら、砂漠だって緑の大地に見える。
「右」の眼鏡をかけている人が見れば、社会は右に寄るべきものとして映り、「左」の眼鏡をかけている人から見れば、左路線で進むべきだと映る。
好きな人の庭に実っている柿は美味しそうに見えるけれど、憎らしい人の庭の柿は柿までにくく見える。
そんなことが人の心には往々にして起こる。
私たち人間という生き物は、自分がかけている眼鏡越しに人を見、外界を見ているのである。
もしこの眼鏡が限りなく透明に近いものであれば、世界はそのままの姿で眼に映ることだろう。
しかし実際には透明な眼鏡というのは難しく、少なからず誰の眼鏡にも色は付いているもの。
私たちは知らず知らずのうちに自分がかけている色眼鏡に色に偏った世界を見ているのかもしれないのである。
本来は透明であるはずのものが、微かに染まって見える。
色をつけている眼鏡の正体は、自分の頭のなかにある偏見や予断や先入観。
そのような眼鏡を取り外して、曇りのない透明な眼で世の中を見つめた時、その眼に何が映るのか。
それは……ただの世界。
何のレンズも通していない、世界の実相そのものが映るのである。
その実相のみが物事の正しい姿であって、眼鏡を通して見た世界に真実はない。
だから真実の姿というのは、いついかなる時もただの姿をしている。
人を見れば、ただ人に見える。
偉い人にも卑しい人にも見えはしない。
食べ物を見れば、ただ食べ物に見える。
高級でも低級でもない、ただの食べ物。
色眼鏡を外した眼に映る実相。
それは緑色の柳が緑色に見え、赤い花が赤い花として見える、当たり前の景色のこと。
柳が紅に染まっていて花が緑色の花びらを開いているというのなら、珍しくて誰かに知らせたくもなりそうだが、この禅語はそんな珍妙なことが言いたいのではない。
柳は緑 花は紅。
何の変哲もないことが、変哲のないままに、ありのままに見えているか。
当たり前の事実を、当たり前に受け取ることができているか。
自分本位に歪めて理解してはいないか。
実相を、実相のままに見る眼を持てと、つまりはそのサングラスを外せと、柳と花の色をたとえに、この禅語はそっと真実を示している。