【禅語】慈眼(じげん)
慈眼という禅語がある。
慈しみの眼。
この禅語を頭に想い浮かべるとき、私はとある書家が残したという次の言葉を想起する。
「人が書く字には必ず良いところがある」
どんな字にも良いところが必ずある。
子どもであっても、大人であっても、それぞれに良さがある。
たとえどんなに下手な字でも、その字のなかに良さを見て取ることができなければ、書家として本物ではない。
批判ばかりしているうちは、到底本物でない。
正確な言葉を聞いたわけではないが、そのような言葉を残した書家がいたそうだ。
住職であり能書家でもある私の師匠から聞いた話である。
「慈」とは楽を与えること
小学生の書道の腕前を披露するため、清書された半紙が壁にびっしりと貼り連なっている書道展などを見ていると、なるほどねえ、書家が残した言葉の意味が少しわかるような気がする。
子どもの書く字は、どれもまだまだ発展途上。
あらゆる観点から見て完璧な字を書く子などいない。
でも、きれいな字でなくても、線に元気があったり、力強かったり、丁寧だったり、バランスがよかったり、あるいはその字の意味がよく表現されていたり、いいなと思う点は確かどの字にもある。
ここはこう直したほうがいい。
あそこはこうやって直したほうがいい。
そういう改善点を探す視点から書を見なければ、書道の腕前はなかなか上達しないのかもしれない。
けれども「この横線は勢いがあっていい」とか、「とめが丁寧でいい」とか、良いところを探す視点から書を見なければ、子どもの書の良さだってわからないまま。
そうした良いところを子どもに伝えてあげれば、子どもはきっと嬉しく感じるのではないか。
「好きこそものの上手なれ」という格言があるが、楽しく物事に取り組めることは間違いなく上達の近道。
だからそのような視点で書を見ることができる人、あるいはそのように子どもに声を掛けることのできる人は、きっと慈しみの眼を持った人なのだと思う。
そしてその眼を、禅では慈眼とよぶ。
「慈」という字は仏教において「与楽」を意味する。
与楽とは、楽を与えること。相手を楽しませること。
つまり、相手に「楽」の気持ちを生じさせることが、人を慈しむということの意味なのである。
成長と声掛け
企業でもスポーツでも職人の世界でも、どんな分野でも後輩を育てることは重要な仕事となりえる。
その際、後輩をどうやって育てるか。
「褒めて伸ばす」「叱って伸ばす」という2つの方法がある。
人間にはそれぞれタイプがあって、大別すればそのどちらかの方針が合っているのだと言われるが、「叱って伸ばす」ということがどこまで有効なのか、私は少し疑問に感じる。
叱ることが間違っているということではない。
叱ること自体はもちろん重要な言葉がけだ。
ただし、叱って「鍛えられる」ということはあるだろうが、「伸びる」となると、これは疑問に感じるのである。
叱るとは、強度を増すために対象をぎゅっと縮めるようなはたらきなのではないか。
ちょうど、小学生が書いた書道の文字の良い点を見るのが「褒めて伸ばす」であり、悪い点を見るのが「叱って鍛える」に相当するように。
褒めれば字の器は拡張され豊かに育ち、叱れば字は収斂し整えられていく。
人が成長する過程も、まさにこの拡張と収斂の連続なのではないかと思う。
そして両方を使い分けてこそ、人は正しく成長する。
ただ、「伸びる(拡張する)」ということに関しては、あくまでも「褒める(肯定する)」ことが適しているのではないかと思うのである。
特に相手が子どもの場合は。
子どもはみんな褒めてもらいたい
自分の経験と照らし合わせてみても、その思いは一層強まる。
小さな頃、私は親から褒めてもらうことがうれしかった。
小学校で描いた絵は、コンクールはおろか、クラスのなかでも目立ってよい評価を受けなかったが、親はとても褒めてくれた。
玄関や居間の壁に絵を飾ってくれ、いつでも眺めることのできるように、その絵たちに居場所を与えてくれた。
居場所を得たのは、たぶん絵だけではなかった。
ここをこうしたほうがいいんじゃない? というようなアドバイスを受けたことも時にはあったのかもしれないが、そのような記憶は一切残っていない。
ただ褒めてくれたのが嬉しく、飾ってくれたのが嬉しく、そして親が嬉しそうな表情をしていることが嬉しかった。
結果、私の画力は鍛えられることなく小学生程度で止まっているが、そのことに些かの未練もない。
それ以上に、私は自分を自分で認めることのできる自己肯定観のようなものを得た。
のびのびと伸びたのである。
それは、何ができようと、何ができまいとに関係なく、自分の価値は誰であっても計ることができず、平凡なことが平凡なままでものすごく特別なことというような、根拠のない自己肯定であった。
この不思議な自己肯定観の礎は何なのかと過去を振り返ると、どうしても「アレ」としか思えないのである。
親の慈眼。
どんなに稚拙な絵に対しても良い点を見出してくれた「眼」こそ、「慈」と呼ぶにふさわしい「眼」なのではないか。
一般に『観音経』と呼ばれている『妙法蓮華経観世音菩薩普門品』というお経の最後のほうに、
「慈眼視衆生 福聚海無量」
(じげんじしゅじょう ふくじゅかいむりょう)
という一節がある。
「慈しみの眼で人を視る、すると大海のように無限の福が集まる」
そんな意味の一節である。
なるほど。
批判の眼で視るのではなく、人の良さに眼を向けるような「慈しみの眼」で人を見れば、たしかに福が集まるのかもしれない。
子どものころの自分がまさにそうだった。
何を見るか、どこを見るか、どの眼で見るか。
人が自分を無条件に肯定できるのは、じつは身近にいた誰かの慈眼によるものなのかもしれないと、のんびり考えるきっかけになった素敵な禅語だ。