禅の視点 - life -

禅語の意味、経典の現代語訳、仏教や曹洞宗、葬儀や坐禅などの解説

禅とは何か ~言葉の意味と仏教との関係~

禅とは何か

昔から禅というものに対する関心というのは一定数あったようだが、近年また少しその注目度が上がっているような気がする。
たぶん、あの人の影響だろうか。スティーブジョブズ。


優れた経営者が禅に親しんでいたという事実が広まったことで、ただでさえ謎めいていた禅が、さらに興味をかき立てられる存在になっていった側面があるように思う。

禅と坐禅

禅というと坐禅を思い浮かべる方は多いのではないか。
実際のところ、禅宗とは詰まるところ坐禅宗だと言ってしまってもいいと考えている僧侶は少なくない。


特に禅宗の一派である曹洞宗は坐禅を最も重んじる宗派なので、曹洞宗僧侶である私も坐禅宗という考え方には概ね賛成である。
「禅=坐禅」とまではいかずとも、「禅≒坐禅」という構図は間違いではないと思っている。




しかしまあ、当然のことながら坐禅だけで禅のすべてをカバーできるわけではないので、なぜ禅といえば坐禅というイメージが定着しているのかといったことも含めてちょっと考えてみたい。
ちなみに、「禅宗」については下の記事をどうぞ





禅という言葉の語源

禅という言葉は、サンスクリット語の「ディヤーナ」、パーリ語の「ジャーナ」の漢訳である。サンスクリット語とはインドに古くから存在する由緒正しい言語で、パーリ語はその俗語。
日本でいう標準語と地方の方言みたいな関係と大雑把に考えていただきたい。


サンスクリット語の俗語はいくつもあるが、なかでもパーリ語はもっともサンスクリット語に近い俗語といわれている。
ちなみにブッダの言行録とも言える上座部経典(阿含経)は俗語のパーリ語で書かれている。


このパーリ語の「ジャーナ」という言葉の音を聞いて、昔の中国の人は漢字に訳す際に似た発音をする漢字をあてはめた。それが「禅那(ぜんな)」という言葉である。ここから「那」が落ちて、禅という言葉が生まれた。


だから「禅那」という漢字自体には、じつは意味がない。パーリ語の「ジャーナ」に音が似ているというだけである。


このように発音をそのまま写した訳を音訳といい、その反対に意味で訳すことを意訳という。したがって禅那は音訳である。
一口に漢字に訳すといっても、そこには大きく2つの方法が存在する。

禅の意訳

それで、重要なのはもちろん意訳のほうなのだが、中国ではジャーナという言葉を「静慮(じょうりょ)」「定(じょう)」「思惟(しゆい)」などと意訳した。
これらはすべて精神の統一をあらわす言葉であり、今日でいう瞑想と同じような意味である。


つまり禅とは、一言でいえば瞑想を意味する言葉であるといえる。
そして仏教における瞑想は坐禅を指すため、「禅≒坐禅」というイメージへとつながっていく。


ちなみにサンスクリット語には「サマーディ」という言葉があり、これは漢字で「三昧(ざんまい)」と音訳された。
何かに没頭するような状態を「〇〇三昧」とよぶ、あれである。意味はジャーナとほぼ同様で、やはり精神の統一を指す。
集中している状態もまた、精神が統一された状態に近いと認識されていた。

仏教の3つの柱

禅の意味が精神の統一、瞑想にあるのは上記のとおりだが、それは仏教を構築する3つの柱のうちの1本でもある。
仏教には「三学(さんがく)」とよばれる大きな柱が3つあるのだが、その1つが「定」、つまりは瞑想なのだ。
ほかの2本は「戒(かい)」と「慧(え)」で、これに「定」を合わせた「戒・定・慧」を三学と呼んでいる。


「戒」というのは生活指針のようなもので、早い話が規範・ルールのこと。
僧侶や仏教徒は戒にのっとって生活することがふさわしいと考えられていたので、重要な3つの柱の1つは戒になっている。


戒のことを戒律ともいうが、厳密にいうと戒と律は別物である。
戒は私的な規範で、律は公的な規範。
なので仮に戒を破っても罪にはならないが、律を破ると罪が重い。
ちなみに最大の罰は教団からの追放である。


「慧」というのは真実について考える頭のはたらきのことである。智慧ともいう。
一般的に「ちえ」という言葉には「知恵」という漢字が用いられるが、仏教では知恵と智慧を区別して用いることも多い。


たとえば、人を騙して金儲けをする妙案を考える頭のはたらきは知恵(悪知恵)とも呼ばれる。
しかし智慧は、人を騙して金を得て、それで本当に幸せなのかを考える頭のはたらきを指す。
つまり、真実を考える頭のはたらきが智慧であり、計算をする頭のはたらきが知恵というわけだ。




智慧の眼を開くことをもって悟りと表現されることもあるように、智慧の眼を開くことが仏教の基本的な目的であるといえる。
禅においてもそれは例外ではないのだが、ただしあえて禅の特徴は何かと考えれば、三学でいうところの「定」を重視する教えと考えることができるだろう。


「定」とは前述の、ジャーナの意訳の「定」と同じで、精神の統一の意である。
ただし三学はそれぞれ別個に存在しているわけではなく、互いに関係しあいながら存在しているから、そもそも分けて考える必要はあまりともいえる。

体験を重視する禅

禅という言葉からその意味を探ろうと思えば、禅とは瞑想であるという結論が導き出される。
しかし禅という一文字に内包されるものはそれだけではない。もう1つ大きな顔がある。
それは、歴代の禅僧たちが大切にしてきた禅の在り方、すなわち頭でっかちになることを戒め、体験重視の教えであるという側面だ。


禅の特徴をズバリとらえた言葉に「不立文字(ふりゅうもんじ)」という禅語がある。
真実とは文字や言葉で会得できるものではない。必ず実体験としてそれを体得せよ体解せよという意味の言葉であるが、この禅語がやはり禅の特徴を説明するにはぴったりと言えるだろう。




禅は仏教から発生した実践哲学のようなものであって、真実を悟ることと等しい価値観で、真実を体現することを主題としている。
仏になることを目指すというよりも、すでに仏であることを自覚した上で、仏として生きることを目指しているのである。


仏という不変の存在を想定せず、「仏として生きる時、人はみな仏である」という考えのもと、仏として生きていくことを根本に位置付けていると言うこともできるだろう。


このあたりが、智慧を開くだけでなく体験としての「定」を重視する禅の特徴であり、「禅とは何か」の答えになるのではないかと思っている。