禅の視点 - life -

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『般若心経』を現代語訳するとこうなる - 存在が存在することの意味を説くお経 -

摩訶般若波羅蜜多心経

『般若心経』を現代語訳するとどうなるか

私は22歳の時に在家から出家して僧となった。
禅や仏教に関する諸々を学んだ結果としての出家であったが、そのなかで『般若心経』についても学んだ。
経典に綴られた文々の意味を知ったとき、私は正直驚いた。


わずか262文字のお経に秘められた、小宇宙ともいえる凝縮された教え。
神や仏を信仰しろと言っているのではない。
ここに書かれている教えを信じろと言っているのでもない。
「存在の真実を見抜きなさい」
『般若心経』が言わんとするものは、その一点であった。


『般若心経』は短いお経であり、おそらく日本でもっとも広く知られているお経である。
知られるだけの内容が、確かにこの経典には存在する。
ただ、読めばその内容が理解できるかといえば、それは難しいと言わざるをえない
基礎的な仏教の知識がなければ理解できない言葉がいくつもでてくる。


余分な言葉を削ぎ落とし、エッセンスだけで構成されているため、わかりやすく伝えようとする配慮は皆無。
それだけに、解説書も山のように存在する。
ただ悩ましいのは、その解説書がまた難解なところだ。
解説書の解説書が必要なのではないかと、私自身、思わず断念して閉じてしまった本も少なくない。


『般若心経』の構成

『般若心経』はブッダの弟子の一人であるシャーリプトラに、観音菩薩が教えを説くというシチュエーションで全文が構成されている。
だが、それも一般には知られていないことであり、それがこの物語の理解を一層遠ざける結果となってしまっている。


じつは日本に伝わっている『般若心経』は「小本」とよばれるものであり、このほかに「大本」よばれるものが存在する。
「小本」と「大本」は、その説かんとする内容に違いはないのだが、「大本」にはプロローグとエピローグが付いている点だけ異なる。
そこで述べられている状況設定が「小本」には存在しないため、どうしても「小本」は唐突に話がはじまるように感じられてしまうのである。
もし「大本」の内容を知りたい方は、『般若心経』の訳本として不動の存在となっている中村元氏の『般若心経・金剛般若経』(岩波書店)をご一読いただきたい。
中村元 (哲学者) - Wikipedia


物語のなかで観音菩薩は、一人の人間のような存在として登場しているので、ここでの訳においても観音菩薩は人間のような存在として書いた。
そのほうがわかりやすいと思うからであるが、それが果たして訳として相応しいかといえば、それはわからない。
私はあくまでも、1つの物語としてもっとも理解しやすい形の『般若心経』の現代語訳が書きたいのであって、原文を忠実に訳したいわけではない。
忠実な訳を記した解説書は数多あるので、一通り内容を理解した後にそれらで詳細に学ぶという方法をとったほうが、おそらくは理解しやすいものと思われる。


では、『般若心経』の現代語訳(私訳)に移ろう。
太字で書かれているのが原文で、(  )に書かれているものが読み方(唱え方ではない)で、その下に書かれているのが訳である。


現代語訳『般若心経』

摩訶般若波羅蜜多心経(タイトル)

(まかはんにゃはらみったしんぎょう)
存在が存在することの意味を説いたお経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時

(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ)
私(観音菩薩)は「自分が存在するとはどういうことなのか」という問いについてとことん向き合った末に、一つの真実にたどり着いた。
その真実について、お伝えしよう。

照見五蘊皆空 度一切苦厄

(しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく)
私たち人間という存在は、身と心によって成り立っている。
だから私は、自分とは何かを知るために、この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした


しかし、物質的な肉体も、視覚・聴覚といった感覚作用も、それを受けとる知覚も、あるいは意思や認識といったあらゆる精神作用すべて、どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。
確固たる自分は、どこにも存在しなかったのだ。
驚いたことに、「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである
その真実を知って私は驚きを隠せなかったが、同時に苦悩から解き放たれるような安らぎを覚えた。

舎利子

(しゃりし)
ブッダの弟子のシャーリプトラよ。
私が知り得た真実とは、「自分が存在しない」という驚くべき事実のことなのだ。
今からその真意について簡潔に話をするから、よく聞いておくれ。

色不異空 空不異色

(しきふいくう くうふいしき)
まず私たちの体を詳細に観察すれば、これは「体」という固有の「もの」が存在するのではなくて、たとえば原子というような、様々なものがくっついて出来上がっていることがわかるだろう。
つまり「体」が存在するのではなく、いろいろなものが集まってできた「物体」を、私たちは体と「呼んでいる」にすぎないのだ
これは事実として理解できるね?


体というものは、いや、体だけでなくあらゆる物体は、それ固有の実体が存在しているのではなく、あくまでも何かが集まった「状態」にすぎない。
不変の自分、つまり自性(じしょう)と呼ぶべきものはなく、すべて無自性なのだ。
この、「あらゆる物体に実体はない」という真実に、まず名前を付けてしまおう。
そうだな、「空(くう)」という言葉がいい。
「物体に実体は存在しない」という真実を、「空」と名付けることにするから、これから私が「空」と言ったら、「物体に実体は存在しない」「自性がない」という意味であると覚えておいておくれ。

色即是空 空即是色

(しきそくぜくう くうそくぜしき)
私たちが感じとるあらゆる物体は、固定的な実体がなく「空」という性質をもっている。
存在を支配する根本の原理は、この「空」という真実なのだ。
そして存在は「空」であり、変化をする性質であるからこそ、あらゆるものは形をもつことができ、また形を変えることができるのである


もしも固定的な物体が存在したら、その物体は何をどう加工しようとしても変化をしないことになる。
変化をしないから固定的な物体なのだ。
しかしそのようなものは、この世界のどこにも存在しない
どのようなものであっても変化をし、だからこそこの世界には多種多様な姿や形をしたものが存在している。

受想行識 亦復如是

(じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ)
そしてその「空」という性質は、物体だけでなく、精神作用にもあてはまる。
すなわち、感覚・知覚・意思・認識といったあらゆる精神作用も、形こそないが、変化をするという法則のなかにある。
つまり、物体である身も、精神作用である心も、どちらにも固定的な実体は存在しないということだ。
これが何を意味しているかわかるだろうか?
そう、自分とはこの身と心であるにも関わらず、身にも心にも実体としての「自分」が存在しないということなのだ
固定的な存在としての「自分」は、どこにも存在しないのである。


ただ、私たちは脳という器官があり、「考える」という営みができ、「自分」という概念を想起することができるため、この身と心を具えた一つの物体、つまりが自分という存在を、自分だと認識することができる。
できる、というよりも、認識してしまっている、と言ったほうがより正しいかもしれない。
しかし真実としては、自分というものは存在しないのだ。
これはつまり、「自分」という存在は固定的な存在ではなく、流動的な「状態」の一つにすぎず、結局自分も「空」だということである



舎利子 是諸法空相

(しゃりし ぜしょほうくうそう)
シャーリプトラよ、驚いただろうか?
それとも、言っている意味がよくわからないだろうか?
もしくは、当たり前のことを言われたような気がしただろうか?


まあ、今はどれでもいい。
あらゆる存在が「空」であるという理解は、当たり前のもの、普遍の事実であるから、今すぐ理解できなくても大丈夫だ。消えてなくなることはない。
これを知ろうと志せば、必ず知ることができる。
ただ、世界の在りようをしっかりと見つめて真実を見抜いていこうとする態度だけは失ってはいけないよ。
このことは人生を生きる上で本当に重要な理解となるから、くれぐれも忘れないでおくれ。

不生不滅 不垢不浄 不増不減

(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)
あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。
私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。
あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。
私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。
「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議は「はたらき」なのである。
「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある
それが、だ。


だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。
「存在」「空」「自性がない」「無常」「変化を繰り返す」「常なるものは存在しない」
これらのキーワードはすべて、互いに深く関係しあっているものなのだ。
そして存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。
ただ、変化を続けるだけである。

是故空中 無色 無受想行識

(ぜこくうちゅう むしき むじゅうそうぎょうしき)
これまでのことを繰り返すことになってしまうが、もう一度言おう。
身も心も、すべては「空」であり、固定的な実体などというものはどこにも存在しない。
私たちを含むあらゆる存在は、変化するなかで「今はこの状態として存在している」というふうな存在のしかたでしかこの世界に存在することができない
つまり存在には自性がなく、すべて無自性なのである。

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

(むげんにびぜっしんに むしきしょうこうみそくほう)
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心。
そのどこにも不変のものはなく、みな「空」である
見えたもの、聞こえた音、嗅いだ臭い、食べた味わい、触った感触、抱く思い。
それらもまた「空」であり、不変の実体として存在するものではない。

無眼界乃至無意識界

(むげんかいないしむいしきかい)
私たちは感覚器官で周囲の世界を感じとる。
つまり私たちが理解できる世界とは、自分の感覚器官で感じた世界であって、世界そのものを感じているわけではない
世界とは、私と世界とが互いに関係し合うところに生まれるものなのだ。
そうした世界もまた、「空」であることに違いはないのだがね。

無無明 亦無無明尽

(むむみょう やくむむみょうじん)
私たちは、真実に眼を向けずに、自分本位の誤った認識で生きることで「苦」という感情を抱く
真実とは、存在は「空」だということ。
誤った考えとは、自分を含む様々な存在が実体として存在していると思ってしまうこと。
なぜ世界が「空」という真実のもとに存在しているのかは、私にもわからない。
ただ、世界は現にそのように「空」として在るわけだから、これは事実として受け止めるしかない。
あらゆるものは、有るようで無いのである。
それは、ただ無いのとも違う。
やっぱり、有るようで無いのだ。

乃至無老死 亦無老死尽

(ないしむろうし やくむろうしじん)
だから、老いや死ということも、本当は存在しない。
老いや死とは人間の眼から見た、概念としてのみ存在するもので、実際には「空」である存在が変化をして形を変えているだけである。
老いないわけではないが、死なないわけではないが、それはやはり老いでも死でもない

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

(むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ)
あらゆるものに実体は無いから、苦しみだって本当は無いし、苦しみを無くす方法だってない。
それらはすべて概念でしかなく、その概念を抱く自分という存在もまた、概念でしかない。
じゃあ、あらゆるものは概念なんだと理解すればいいかというと、それも違う


ここはとてもややこしいところだが、頭で理解するという営みが、すでに虚構なのだ
これらを知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。
私たちは知識で何でも得ようとするが、存在の本質に関わる部分では、知識としてこれを得ることなどできはしない。
真実を受け取るとは、知識で理解することではない
だから、得ることなどできないのだ。



菩提薩埵 依般若波羅蜜多故

(ぼだいさった えはんにゃはらみったこ)
無い無いばかりで申し訳ないが、やはり無いと言うほかに方法がない。
誤った認識の発端は、「有る」と思うことだから、やはりどうしても否定の形をとらざるをえないのだ

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖

(しんむけいげ むけいげこ むうくふ)
ただ、存在の本質が「空」であり、私という概念が取り払われ、世界と自分とを隔てる虚構が崩された認識というのは、すがすがしいものである
わだかまりを抱くことが何もない。
わだかまりを抱く私が存在せず、わだかまりという心もまた、本当には存在しないから当然といえば当然か。
心に何の恐れも生じないのだ。

遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃

(おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん)
人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。
だが、本当にそうだろうか。
たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か?
この体を作ったのは、自分か?
熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか?
自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか


それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。
存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからだ
このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

(さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)
いつの時代であっても、どの国であっても、いかなる宗教を信じていても、この「空」という存在の真理を知っている者は心が安らかでいられる
よく、「仏」という言葉が使われるが、その仏とはこの「空」を知る者を指す言葉でもあるのだよ。
仏とは「真実に目覚めた者」という意味の言葉だからね。
真実を感得するのに仏教徒でなければならない理由などないのだ。
誰の眼の前にも真実は姿をあらわしているのだから。

故知 般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒

(こち はんにゃはらみった ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)
だからいいかい、存在が存在することの真実を見抜く「般若波羅蜜多」という智慧は、あらゆる人に平等にもたらされるこれ以上ない尊いものなのだ
人は、「生きる」ということの意味を真剣に考えたとき、必ずこの真実に向き合うことになる。
存在が存在することの意味を知らずして、存在が生きることの意味なんてわかるわけがないからね。

能除一切苦 真実不虚

(のうじょいっさいく しんじつふこ)
あらゆるものは「空」である。
この真実を本当に知る者は、どんな苦しみも、それが概念でしかない自分が築き上げた、さらなる概念であることに気がつくだろう
だから苦しみから逃れようとして苦しむことなど、あるはずもない。
病などによる痛みや疼きが消えるわけではないが、それらを「苦」と認識して「苦」から逃げようとすることはないという意味だ。

故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰

(こせつはんにゃはらみったしゅ そくせつしゅわく)
最後に、この真実を見抜く般若の智慧を、短い咒文で讃えたい。
これだけは意味を訳さないで、古代の言葉のまま読んでほしい。
昔のままの言葉で読むことに意味があるのだ。
だから言葉の細かな意味は知らなくてもいい。
「尊ぶ」という心でもって唱えるだけでいい。
頭で理解することが、理解の全てではないのである
では、その咒文をここに記しておく。

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

(ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか)
ギャーテーギャーテー
ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー
ボウジーソワカー

般若心経

(はんにゃしんぎょう)
これで、存在が存在することの意味を説く、般若心経の教えを終わる。


『般若心経』の写経

以上が私なりの般若心経の現代語訳である。
頭で理解するだけが理解のすべてではない。自分の体験でもって理解すること、「腑に落ちる」というような体験、すなわち「体解(たいげ)」を禅は重視するのだが、しかし『般若心経』を体解するというのも雲を摑むような話に聞こえるかもしれない。
けれども、「生きること」それ自体が『般若心経』の世界を生きることにほかならないから、本当は何も難しく考える必要はないのだと思う。
目の前に広がる世界のすべて、小石1つとってみても、そのすべてが「空」という真理を体現していることを感じで生きれば、それでいいのである。
だから逆に、考えれば考えるほど迷いの深みにはまっていくようなものといえるかもしれない。


前述のように、『般若心経』は「空」の思想を説いた経典である。
あらゆるものに自性はなく、変化を続けることが存在の本質としてある。
しかしその真実を知らず、不変を求めたり、不変なるものが存在すると錯覚することで、真実との間に溝が生じ、そこから苦悩が生まれる。
真実を知れば、人はもっと安らかに生きることができるというのに……。
『般若心経』が「空」を説く理由はそこにある。
すなわち、執着から離れよ、と。


それから意味合いが少し異なるかもしれないが、『般若心経』を写経してみるというのも私はオススメしている。
もしこれまでに一度も写経というものをしたことがないようだったら、なおのこと。
特にオススメなのが鉛筆写経
通常、写経といえば筆で書く場合がほとんどであるが、入門としては鉛筆のほうがよいと思っている。筆はなかなかハードルが高い。そもそも持っていない人も少なくない。
下のリンクで写経用般若心経の手本をダウンロードができ、写経とは何かという概要も載っているので、もし興味があれば般若心経の理解の一助として活用していただければ幸いである。
www.zen-essay.com