禅宗とは?
禅が海外にも広まり、「ZEN」という表記もよく目にするようになった、今日この頃。
世界的な禅の隆興とともに「禅宗」という言葉もまた、以前よりも目にする機会が多くなったように感じます。
しかしながら、いざ「禅宗って何?」となると、意外と一言では答えにくいのではないでしょうか。
うん……禅もよくわからないけど、禅宗もやっぱりよくわからん……
「禅宗っていうのは……禅宗っていう宗派!」
と、答える方もいらっしゃるかもしれませんが、それはちょっと違うんだな……ということも含めて、禅宗についてお話していきたいと思います。
禅宗は宗派じゃない!?
一般的に仏教の宗派の1つと考えられがちな「禅宗」ですが、この禅宗という宗派は、実際には宗派ではないことをご存じない方もいるのではないかと思います。
……えっ?
と思われたそこのアナタ。
そう。禅宗という言葉自体は存在するのですが、厳密いうと禅宗という宗派は存在しないのです。
マジかよ……禅宗って存在しなかったのかよ……
禅宗というのは、曹洞宗や臨済宗や黄檗宗といった、禅を旨とする宗派をまとめた「総称」であって、実際に禅宗という宗派が存在するわけではありません。
ただ、現実的には便利な言葉なので多用されていますが……(私も)。
たとえばキュウリやトマトやキャベツなどを総称して「野菜」と呼ぶように、曹洞宗や臨済宗や黄檗宗などを総称して「禅宗」と呼んでいるというわけです。
「野菜」という名前の野菜がないように、「禅宗」という名前の宗派はないということを、まずは押さえておきましょう。
禅宗という宗派はない
禅宗の開祖
禅宗という括りは曖昧なところが少なくなく、じつは「開祖は誰なのか」と考えた際にも、明確な答えを出すのが難しいような状況です。
一般的には菩提達磨(ぼだいだるま)が禅宗の開祖に相当すると考えられていますが、あくまでも「相当する」としか言えないんですね。
そもそも禅宗という宗派がないのですから、ないものの開祖を見つけるというのが難しいのは当然と言えば当然なのですが……。
しかしまあ、強いて禅宗の開祖と思しき人物を挙げるとすれば、考え方にもよりますがおそらく次の3名のどなたかになるのではないかと思います。
- ブッダ
- 菩提達磨
- 大鑑慧能
一体だれが開祖なのさー!!
① ブッダ
ブッダとは、ご存じの通り仏教の創始者であるお釈迦様のこと。
そもそも禅というものがブッダの仏法、特に坐禅を受け嗣ぐものであることを考えれば、禅の大元はブッダに行き着くと考えてなんら差し支えありません。
事実、曹洞宗の開祖である道元禅師は、禅宗という名称を用いることを戒め、ブッダの教えをそのままに受け嗣いでいるのだから宗派などという区別を用いないほうがよいと考えていました。
こうしたことも考慮すれば、禅宗の開祖はブッダであるという主張は、間違いであるとは言い難いでしょう。
② 菩提達磨
菩提達磨は、禅を中国に伝えた人物として考えられています。
禅宗という独自の特徴をもった集団が中国において出現したことを考えれば、禅宗の開祖は中国に禅をもたらした菩提達磨であると考えるのは、妥当なところかもしれません。
ただし、菩提達磨が歴史上実在した人物であるかどうかは、じつは疑わしい部分が少なくないのです。達磨とは個人ではなく集団を指すような言葉だったのではないかという研究者もいましてね。
ちなみに菩提達磨は、選挙で当選したときに眼を入れる、あの置物の「だるまさん」のもとになった人物。あの赤い「だるまさん」は、達磨大師が坐禅をしている姿を模したものといわれています。
③ 大鑑慧能
3番目の大鑑慧能は、菩提達磨から数えて6番目の祖になる人物です。
一般的にはあまり有名ではない方だとは思いますが、この慧能禅師のもとから急速に禅が中国国内に展開していくため、実質的に禅宗と言えるものの開祖にあたるのは慧能禅師だと考えられなくもありません。
まあ、どれも一長一短ではあるので、結論としては「一般的には菩提達磨が開祖と考えられているが、禅宗は宗派ではないので開祖を明確に規定することはできない」とするのが無難なところでしょうか。
禅宗の誕生
では次に、禅宗のはじまりの時期について考えていきましょう。開祖の不明確な禅宗は、一体いつ頃に誕生したのでしょうか。
これは菩提達磨を開祖と仮定した上での話になりますが、菩提達磨がインドから中国に禅を伝えたと考えられている6世紀初頭を基点とし、徐々に教団としての形態をとりはじめる6世紀後半あたりと考えてよいのではないかと思います。
人によってはインドの時代から「禅宗」が存在していたと主張する方もいますが、それにはちょっと賛同しかねます。
なぜなら禅宗の特徴、たとえば畑で作物を育てるといった生産活動などを「作務(さむ)」と呼び、修行と位置付け積極的に取り組むようになったのは、中国のおいて生まれた禅宗独自の思想であって、インドにはないからです。
インドのお坊さんって畑仕事したらダメらしいね
そういった特徴をもって禅宗と括るなら、禅宗は中国において生まれた形態と考えるのが妥当でしょう。インドの仏教と中国の仏教とでは、修行生活のスタンスに明らかに違いがあります。
禅宗は中国で生まれた
禅宗とインド
禅を瞑想と捉え、瞑想がインドにおいても存在していたからインドにも禅はあったとする趣旨の話ならもちろん賛同できますが、禅ではなく「禅宗」がインドにもあったと考えるのは、どう考えたって難しい。
むしろ、インドと中国という風土・季候の違いや思想の違いなどによって、中国独自の仏教文化が花開き、その過程で禅宗という流れが生まれたと考える方がはるかに納得できます。
したがって、菩提達磨がインドから伝えたのもは、やはり禅宗ではなく「禅そのもの」と言うべきでしょう。
禅宗の特徴
それでは次に、禅宗の特徴について見ていきたいと思います。
系譜(血脈)
禅宗という宗派は実際には存在しませんが、禅宗と総称される曹洞宗や臨済宗や黄檗宗は、すべて達磨大師の仏法を受け嗣いだ方々によって開かれています。
- 曹洞宗の開祖である道元禅師
- 臨済宗の開祖である栄西禅師
- 黄檗宗の開祖である隠元禅師
みな達磨大師の系譜に属する人物です。
つまり禅宗の特徴の1つとして、禅をインドから中国に伝えた「達磨大師の系譜に属する、達磨大師の仏法を受け嗣ぐ宗派」という点が挙げられます。
こうしたところから、禅宗の開祖は達磨大師という考えになるんだろうな
そしてこの禅の家系図の如き仏法授受の系譜を、禅では一枚の大きな紙に書き記し、非常に大切にしています。この紙を血脈(けちみゃく)と言います。
⇧ 血脈の一例(画像引用:有限会社 寺村紙工)
ブッダからはじまる仏法の授受が、名前と朱色の線によって示されていますね。血脈を見れば、自分が受け嗣いでいる仏法がどのような方々を経てきたのかが一目瞭然。
⇧ 血脈を折りたたんだ状態。
だいたい15cm×15cmくらいになる。
ちなみに、広げた状態だと1畳くらいの大きさになる。
禅宗で系譜が重視されるのは、いわゆる「悟り」に至ったかどうかを判定するのは師匠の役目であり、悟りを開いたことの証明である印可(いんか)を師匠から受けることで、はじめて後継者となることができるという考え方が強固であるため。
したがって後継者になるということは、師の法を受け嗣ぐことであり、それは系譜に名を連ねることと同義なのでした。
血脈は自分が師の法を受け嗣いだ者であることの証明書であり、逆に言えば、系譜に名のない者、悟りの印可を受けていない者は、正統な禅宗の祖(後継者)とはみなされません。
「後継者の証し」って、なんかカッチョイイ~響きだね
そのため禅宗には必ず、ブッダからはじまりどのような祖師たちの系譜を経て自分のもとまで仏法が伝わってきているのかを示す血脈が存在するのであり、法を受け嗣いだ者は自分の血脈を持っています。このことを伝灯とも言います。
何十代、あるいは百代以上にもわたる壮大で膨大な禅の家系図です。
血脈には仏法の授受の系譜が記されている
自力の教え
系譜というハード面とは別に、もう1つの大きな特徴が禅宗にはあります。それが、「自力」の教えを説くという、ソフトの面。
たとえば、禅の特徴を端的に示した達磨大師の言葉として、四聖句(しせいく)と呼ばれる句が禅には存在します。
教 化 別 伝
不 立 文 字
直 指 人 心
見 性 成 仏
これを訳すと、おおよそ次のような内容となります。
「経典に書かれている教えや仏に救いを求めるのではなく、ひたすらに坐禅をして自己をみつめ、自らが仏として生きることに徹する」
ここに禅宗のアイデンティティが端的に示されていると言えるでしょう。つまり、自らが仏として生きることに心の平安や救い、あるいは悟りを見出すのが禅の思想の最大の特徴と言えるのです。
自分で自分を救う、それが禅の思想の特徴なのね
これは浄土系の「他力」の思想とはまったく異なるものであり、坐禅による修行こそがソフトの面における禅宗の特徴というわけです。
「自分を救うのは自分である」が禅の教えの基本
禅の系譜
禅において系譜が重要なのは前述したとおりですが、それでは実際にどのような系譜を経て曹洞宗や臨済宗や黄檗宗が誕生したのかをみていきましょう。
まず、系譜の頂点、仏教全体の開祖ですが、これはもちろんブッダ(釈迦牟尼仏)になります。
じつは「過去七仏」といって、ブッダ以前の系譜も存在するにはするのですが、これは思想の面から発生した系譜であって、史実として考えるべきものではありません。なのでここでは考慮しないものとします。
あくまでも仏教の頂点はブッダ。
そのブッダから仏法を受け継いだのは、ブッダの弟子の一人であった摩訶迦葉(まかかしょう)。
「拈華微笑の話」で有名な摩訶迦葉は、以心伝心によってブッダの教えを受け継いだと禅宗では伝えられています。
以心伝心って、ほんとにそんなことがあったのかねぇ
ただし、これもまた禅宗においてのみ強調される逸話であって、史実であるかどうかは非常に疑わしい。
系譜を重視する禅宗では、ブッダからはじまる仏法が誰を経由して自分のもとまで伝わってきているのかを明確にすることが必須だったわけで、そのためにはまずブッダからどの弟子に仏法が伝わったのかを示さなくてはなりません。
そこで禅の伝燈(仏法の伝授)を記した書物にこうした仏法の伝授の話が記載されていくのですが、これは思想の一部であると指摘されることが少なくありません。禅宗内部から言われることはあまりありませんが。
実際、これらの書物はすべて後世において書かれたものであって、禅宗が主張しているだけです。
そのため、「史実としてブッダから摩訶迦葉に仏法が伝わった」とは言い切れない、というかまったく言えないので、客観的に物事を考えるならこの「拈華微笑の話」や、ブッダの教えが摩訶迦葉に伝わったという話には注意が必要です。
ともあれ、禅宗と名乗るのであれば禅宗が考える禅の系譜に属している必要があるので、その後の系譜をなぞっていきましょう。
仏教ではインドのことを「西天」(さいてん)と呼び、中国のことを「東土」(とうど)や「震旦」(しんたん)と呼びます。
なのでまずはインドにおける28人の祖の系譜、いわゆる「西天二十八祖」を確認していきましょう。
禅宗ではブッダの仏法の伝授を主張しているが、史実というわけではない
インドにおける禅の系譜(西天二十八祖)
釈迦牟尼仏(仏教開祖)
⇩
- 摩訶迦葉
- 阿難陀
- 商那和修
- 優婆毱多
- 提多迦
- 弥遮迦
- 婆須蜜多
- 佛陀難提
- 伏駄蜜多
- 婆栗湿縛
- 富那夜奢
- 阿那菩底
- 迦毘摩羅
- 那伽閼刺樹那
- 迦那提婆
- 羅睺羅多
- 僧伽難提
- 伽耶舎多
- 鳩摩羅多
- 闍夜多
- 婆須盤頭
- 摩拏羅
- 鶴勒那
- 獅子菩提
- 婆舎斯多
- 不如蜜多
- 般若多羅
- 菩提達磨
ずらり。
ここに挙げた祖師方はすべて西天の方々、つまりインドの祖師方です。だから名前の発音がちょっと馴染みのないものばかりで、漢字もほとんど音訳の当て字。
ブッダからはじまった禅の教えが、1番目の後継者である摩訶迦葉に伝えられ、28代を重ねて菩提達磨に受け嗣がれていった。これがインドにおける禅の系譜になります。
ブッダの時代が紀元前5、6世紀で、達磨大師が5、6世紀の方だから、約10世紀=1000年という歳月を28人の祖師たちが受け継ぎ伝えてこられたということになります。
1人あたり約36年。
それを28回くり返した。
なんとも壮大な話です。
中国における禅の系譜
続いて、中国における禅の系譜を確認していきましょう。
中国の禅の初祖は、先ほどから何度も名前が登場している達磨大師。その達磨大師を初祖(一祖)と数え、二祖が大祖慧可、三祖が鑑智僧璨、四祖が大医道信、五祖が大満弘忍、六祖が大鑑慧能。
- 菩提達磨
- 大祖慧可
- 鑑智僧璨
- 大医道信
- 大満弘忍
- 大鑑慧能
この六祖に当たる慧能禅師がまた1つの基点となっていて、ここから禅が急速に中国国内に広まり、五家七宗(ごけしちしゅう)と呼ばれる禅の興隆時代へと突入していきます。中国において一気に禅宗が花開くのです。
慧能禅師が禅宗にとって大きな意味合いをもつと言われる由縁だな
興隆の最大の理由は、慧能禅師を筆頭にして、法を受け嗣いで輩出される弟子がとんでもなく大勢になっていくため。
慧能禅師のもとからは南岳懐譲禅師と青原行思禅師という優れた2人の弟子が輩出されるのですが(ほかにも法を受け嗣いだ弟子はいる)、そこから段々と法を受け嗣ぐ弟子の数が増えていくのです。
代を経るごとに法を受け嗣ぐ弟子は増え続け、富士山の裾野のように規模がどんどん膨らんでいくんですね。
この富士山の頂上に相当するのが慧能禅師であるため、慧能禅師は禅の大成者とも呼ばれています。
五家七宗
中国における禅の興隆を象徴する言葉といえば、何といっても「五家七宗」。これは六祖慧能下のおける5つの宗派と2つの派の誕生を意味する言葉になります。
5つの宗派とは、
- 臨済宗
- 潙仰宗
- 曹洞宗
- 雲門宗
- 法眼宗
のこと。
また、2つの派とは、臨済宗における
- 楊岐派
- 黄竜派
のこと。これらを合わせて五家七宗と呼んでいます。
下の図は、五家七宗の台頭と、それぞれの宗派が誰によって日本に伝えられたかを表した系譜になります。
上の図は主要な人物だけをピックアップした簡略な系譜であって、実際にはもっともっと膨大な祖師方の名が連なっています。
次々と宗派が台頭する五家七宗の時代は、まるで仏教の戦国時代のようなニュアンスでもってイメージされることもありますが、宗派間の争いというものはほとんどなかったと考えられており、むしろ相互交流が盛んに行われていたと考えられています。
この五家が台頭した9世紀~10世紀、七宗の2派が台頭した10世紀~11世紀にかけて、中国禅は1つの完成に至ったと考えておおよそ問題ないでしょう。
禅宗の確立は五家七宗の時代
禅の日本への伝来
12世紀に入り栄西禅師が中国へ渡って禅を学び、印可を受けて日本に戻ることによって、禅が本格的に日本へともたらされることになります。
じつはこれより前に日本から中国に渡って禅を学んだ僧もいるのですが、それらの僧は印可を受けていませんでした。印可とは、禅の仏法が受け継がれたことを師匠から証明されることです。
前述のように、禅においては系譜がとても重要な意味を持つのでした。それしか正統性を主張するものがないためです。
そしてその系譜は、印可を得て仏法が受け継がれることによって脈々と継承されてきたものにほかなりません。
したがって、いくら独自に禅を学ぼうと、たとえ悟りを開こうと、印可を受けることができなければ禅を受け嗣いだことにはならないのです。
そのため、栄西禅師が日本に伝えた禅と、それ以前に中国で禅を学んだ僧とでは、禅の伝来の意味が天と地ほどに異なるというわけです。
禅宗では「印可を受けたかどうか」が、正統と非正統の境目
栄西と臨済宗
1187年、栄西禅師は中国へ2度目の留学をし、臨済宗黄龍派の虚庵懐敞に師事し、悟りを得たことの証明である印可を受けます。そして1191年に日本へ帰国し、九州各地に禅寺を開く。
さらに京都に戻って禅を広めようと布教にはげむのですが、この動きに反発した既成仏教勢力がありました。そう、当時の日本における最大仏教勢力、比叡山の天台宗です。
当時、天台宗は公家や朝廷からの帰依も受けており、そうした天台宗のはたらきかけによって、臨済宗は朝廷から禅宗としての活動を停止するように命令を下されてしまうのです。
これに対し栄西禅師は『興禅護国論』を著わし、自分が中国から伝えた仏教は最澄が伝えたものと同じであり、天台宗の復興を願うものであることを主張したのですが、残念ながらこの話は聞き入れてはもらえませんでした。
出る杭は打たれるってことね、いつの時代も同じですな
しかたなく鎌倉に下った栄西禅師は、坐禅とともに公案(師匠から与えられた禅の課題)に取り組む修行を打出し、悟りを目指した宗風を広げることにしました。
すると、その修行スタイルが武家の気風と合致し、なんと鎌倉幕府からの帰依を受けることとなるのです。
尼将軍こと北条政子や、鎌倉幕府2代将軍の源頼家といった錚々たるメンバーからの後押しを受け、栄西禅師は京都に建立された建仁寺の開山となります。こうして権力の庇護を受けた臨済宗は、日本において発展していったのでした。
また、栄西禅師は中国から日本に帰る際に、お茶を持ち帰りました。じつは日本に喫茶の風習が広まったのは、この栄西禅師による功績が大きいと考えられているのです。
面白い話で、栄西禅師が3代将軍源実朝の二日酔いをお茶で治した、なんていう伝承も残っているんですね。
道元と曹洞宗
栄西禅師が中国へ2度目の渡航をしてから36年後、1223年に、今度は道元禅師が仏法を求めて中国へと海を渡りました。
道元禅師は比叡山で経典を読んでいて「人は本来仏である」という意味の言葉に出会い、「もし本当に人が本来仏であるなら、どうしてさらに修行をして悟りを目指す必要があるのか」という疑問を抱きました。
そしてその答えを求めて日本の高僧らに教えを乞うのですが、満足のいく回答は得られず、こうなったら自分が中国に渡って真の仏法を会得するしかないと決断したのでした。
しかし中国各地の寺院を訪ねても、納得のいく答えを示してくれる師はなかなか見つかりませんでした。途中、師を探す旅を諦めて日本に帰ることまで考え始めてしまいます。
そんなときに如浄禅師と出会い、ようやく本物の師に出会うことができた道元禅師は、如浄禅師のもとで修行に励み、やがて悟りを開き印可証明を受けるまでになりました。
頑張ったんだねぇ、本物のお師匠さんと出逢えてよかったよぉぉ
そして5年間の中国での修行に区切りをつけ、日本に帰国。
日本に帰った道元禅師は、ブッダが悟りを開いたのは坐禅によるものであり、坐禅こそが仏教の根幹であるとして、坐禅修行を広めました。
この、ただひたすらに坐禅を行う「只管打坐(しかんたざ)」と呼ばれる修行観は、臨済宗の公案を主とする修行観とは相違する部分が少なくありませんでした。
しかし坐禅修行を説く道元禅師のもとに少しずつ教えを乞う修行僧が集まるようになると、臨済宗と同じように外的な圧力が加わることになります。やはり比叡山からの圧力です。
既成仏教にとって、新興勢力は認めがたい脅威だったということでしょう。
新興勢力を許してあげて~ このとおりですから~
こうして道元禅師は修行の場を移し、最終的には越前の山奥へと向かいます。そうして現在の福井県に誕生したのが、曹洞宗の大本山である永平寺です。
しかしながら、曹洞宗の開祖である道元禅師は当初、曹洞宗という名称を用いませんでした。それどころかむしろ宗派を名乗ることを戒めました。
自分は一宗一派の教えを日本に伝えたわけではなくて、ブッダが説いた仏教そのものを伝えたのだから、「〇〇宗」と称するのはおかしいと考えたのです。私が学んできたのは仏教そのものであると。
実際、曹洞宗という宗派の名前が普及しはじめるのは、道元禅師から数えて4代目にあたる、瑩山禅師の時代だと考えられています。
隠元と黄檗宗
臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師の両人はともに日本人でしたが、黄檗宗の開祖である隠元禅師は中国の人です。
また、栄西禅師や道元禅師が鎌倉期の人であったのに対し、隠元禅師の生まれた年は1592年と、前の2人に比べればだいぶ後世の話になります。
隠元禅師は1637年に福建省の黄檗山萬福寺の住職となった人物で、中国内にその名を知られる名僧でした。そして1654年、隠元禅師は日本の寺院からの要請に応じる形で長崎へと渡来します。
隠元禅師が来日した時代の日本の仏教界は、鎌倉期の新興仏教の台頭の時代に比べてずいぶんと安閑とした雰囲気であり、悪く言えば活気を失っていました。
そんなときに中国から高名な僧侶がやってくるということで、隠元禅師の来日は当時の仏教界にとってはビッグニュースだったようです。
どこだ~ 中国から来た隠元禅師という高名なお坊様はどこだ~
特に湧き立ったのは臨済宗で、隠元禅師を妙心寺の住職に迎えるような動きさえもありました。
しかしそれは実現せず、結局は京都の宇治に萬福寺を建立し、隠元禅師はその開山となりました。
隠元禅師は以後19年にわたって仏法を説き続け、各宗派の復古運動などに大きな影響を与えました。そして日本の黄檗宗の開祖となりました。
また、隠元禅師が日本に持ち込んだものは仏法だけではなく、インゲン豆や煎茶、普茶料理といったものもあります。こうして隠元禅師が日本に伝えた文化は黄檗文化とも呼ばれています。
まとめ
いかがでしたでしょうか。禅宗という宗派(宗派ではないですけど)の大枠についてご理解いただけたでしょうか。
それでは最後に、これまでの話をまとめてみたいと思います。
- 禅宗とは、曹洞宗や臨済宗や黄檗宗など、禅を旨とする宗派の総称であって、禅宗という宗派が存在するわけではない。
- 禅宗の誕生は不明確ながらも、菩提達磨が禅をインドから中国に伝えた6世紀初頭以降と考えることができる。そのため、菩提達磨が禅宗の開祖であると考えられることが多い。
- 禅宗はブッダや菩提達磨の教えを受け嗣ぐ宗派であるため、仏法を正統に受け嗣いでいるかどうかを証明する系譜(血脈)を非常に重要視している。
- 禅宗の教義の根本には坐禅があり、坐禅の心で日々を過ごすことを仏として生きることと同義と考え、自らが仏となって自らを救おうとする自力の教えである。
- 禅宗として有名な宗派は、栄西禅師が開祖の臨済宗、道元禅師が開祖の曹洞宗、隠元禅師が開祖の黄檗宗などがある。
一口に禅宗と言っても、意味や歴史など、実際にはいろいろでしたね