【禅語】生児現成(しょうにげんじょう)
親と子の関係について述べられたちょっと面白い禅語がある。
それが「生児現成」。
道元禅師が著した『正法眼蔵』の山水経の巻に出てくる言葉だ。
もしかしたらこの言葉の意味を知っておくと、育児に対する心構えが少し和らぐのではないかと思う。
私自身がそうだったから。
肩肘を張って、何もかも完璧にこなして、失敗しないで子どもを育てなければいけないという呪縛から解放される。
だからこの言葉は、子を育てている、あるいはこれから育てるすべての親に知っていただきたい禅語でもある。
親から子が生まれるのではない
親と子との関係を考える時、先に親が存在して、そこから子が生まれたと考えるのが通常の思考ではないだろうか。
実際、子は母親のお腹から産まれてくるのだから、親がいなければ子が存在しないのは疑いようのない事実である。
ただ、この禅語が言っているのは、それと逆のパターンはどうか、ということ。
つまり、子がいなければ、親も存在しないのではないか、と言っているのである。
どういうことか。
よくよく考えてみれば当たり前の話であるが、子を産む前の親は、親ではない。
大人ではあるが、まだ子がいないから親ではない。
では、いつ親になるかといえば、それは子が産まれたときである。
子が産まれることによって、親ははじめて親となる。
つまり親子は同時に誕生するのだ。
これは当たり前のことなのだが、ちょっと忘れられがちな視点でもある。
何十年と生きてきた大人であっても、子を産んだときにはじめてピカピカの親1年生になる。
親は誰でも、何もかもがはじめての新米親からはじまるのである。
親と子は一緒に成長するもの
親は当然、子よりも歳が上。
だから親は子よりも多くのことを知っている。
しかし親が生まれるのは子が産まれたときなのだから、我が子が生まれるまで親になることの意味は何もわからない。
親と子は同じタイミングで現れるから、親と子は同い年。
だから、親は子を育てるが、親だって子によって育てられる部分も多い。
親子は互いに成長するのである。
子育ては喜びも多いが、それと同等の苦労もある。
いや、苦労のほうが絶対大きいと主張する人も少なくないだろう。
子どもほど手を焼く存在はいないと、私自身も子育てをしてみて大いに実感した。
夜泣きなどによって肉体的にも精神的にもまいってしまって育児ノイローゼになる人だっている。
その気持ちも痛すぎるほどよくわかった。
人と育てるというのは、きれい事ではすんでいかない。
親は親なのだからしっかりしなければいけないと、誰に言われなくても親は感じてしまう。
子が産まれたときは、親といえども何も知らない1年生なのだから、何もわからなくて不安に思って当たり前だが、なかなかそうは思えない。
しっかりしなければいけないと、必要以上に自分を責めてしまうことだってある。
「なんでこの子は言うことを聞いてくれないのっ!」
と、苛立つこともしばしば。
そんなイライラが次のイライラを呼び込み、負の連鎖となって余計に自分を苦しめることになる場合だってよくある。
だから「親だって1年生、親と子は同級生」
この事実を忘れないでおこう。
親は万能なスーパーマンではない。
むしろ子どもと一緒に成長する、不完全な人間だ。
親がいるから、子どもがいる。子どもがいるから、親がいる。
親子はともに生きる存在で、お互いがお互いの存在によって、今ここに親子として存在している道理を忘れてはいけない。
そこを間違うと、変な大人意識が自分を苦しめることになってしまう。
親子はどちらも同じ時期に、同じ1年生から始まるのである。
だから肩肘を張る必要はないし、間違って同然。失敗して当然。
お互い初めてのことなんだから、焦らずゆっくりと学んでいきましょう。
それが禅語「生児現成」の説くところ。
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