【禅語】規矩行い尽くすべからず(きくおこないつくすべからず)
規矩(きく)とは規則のことで、現代でいうマニュアルのこと。
つまり「規矩行い尽くすべからず」とは、すべてをマニュアルで定めてしまってはいけない、あるいは、マニュアルどおりの行動ばかりではいけない、というような意味の禅語となる。
なんだか現代社会にこそ必要な禅語のように感じるが、昔も規則にがんじがらめになるようなことがあったのだろうか。
気になるところだ。
ただし、この禅語はマニュアル「だけ」ではいけないといっているのであって、マニュアル自体がいけないといっているわけではない。
新人が仕事を覚えるのに、マニュアルを覚えるという方法は効率がいい。
マニュアルというのは、いわば定石なのだ。
こうなった場合、こうしたほうがいい。
あの場合は、ああしたほうがいい。
そういったあらゆるパターンのなかで最適なものはどれか、先人が試行錯誤した上で最大公約数的な答えを構築したものがマニュアルなのだと考えれば、やはりマニュアルには大きな意味がある。
マニュアルの心得
大手の飲食店などでバイトをはじめると、今や仕事の内容はほぼマニュアル化されている。
接客の仕方、調理の仕方、あるいは謝罪の仕方やトラブルの処理の仕方にいたるまで、事細かに文字として記されている。
すべてがすでに定められており、それに沿うことがまずは求められる。
そうすることで、安定した結果を残すことができると事前にわかっているからである。
そうしたマニュアルどおりに仕事をすれば、大きなマイナス点を取るということはほぼないだろう。
定石であるから、間違いというものが非常に起こりにくい。
ただ、大きなプラス点を取ることも少なくなってしまうかもしれない。
「規矩行い尽くすべからず」という禅語が危惧しているのは、まさにその点かもしれない。
飲食店の場合、たとえば新規の客にはマニュアルどおりでもあまり問題ないだろうが、常連客にマニュアルどおりでは失礼にあたったりもする。
煙草を吸わないことがわかっているのに、毎回
「お煙草は吸われますか?」
と訊かれては、客も困惑せずにいられない。
「なぜ、訊く? 私のことを覚えていないのか?」
心のなかで、客はそう悲しく呟くに違いない。
マニュアルはあくまでも定石であって、完全ではない。
完全ではないから、現場では絶えずその場に相応しい血の通った対応が求められる。
マニュアルという文字の羅列に終始するのではなく、眼前に広がる現実の世界を感じとって臨機応変に対応していく必要が当然でてくる。
私は在家から出家して僧侶になったが、出家する以前は美容師を目指していた。
実際、美容師免許を取得しており、永平寺での修行を終えてから、すぐに福祉美容師という仕事にも就いている。
老人介護施設や病院等へ訪問し、美容院に行くことのできない方の髪をカットする、福祉を冠した美容師の仕事である。
そういったサービス業では、大筋でマニュアルに沿う必要があるものの、マニュアルを呑み込んだら今度はそのマニュアルを超えていく必要がある。
機械的な接客で満足する相手は機械だけだ。
人は機械ではない。
血の通わない対応ではお客さんも心を許せない。
当たり前のことであるが、そこでは絶えず人と人とのコミュニケーションが交わされ続ける。
何かを規制すれば、問題は起こりにくくなるかもしれないが、発展もまた起こりにくくなる。
この禅語の最後に「尽くすべからず」とあるように、やはりマニュアルに終始するような一辺倒ではいけないということなのだろう。
マニュアルを消化し、マニュアルを超えていくために、マニュアルは存在していると理解しておいたほうがいいかもしれない。
いずれにしても、21世紀の現代社会を見越したかのような、示唆に富んだ禅語である。
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