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正法眼蔵「仏性」巻の現代語訳と原文 Part⑨

正法眼蔵,仏性の巻

正法眼蔵「仏性」巻の現代語訳と原文 Part⑨

『正法眼蔵』「仏性」の巻の現代語訳の9回目。
仏性の巻は文字数が多いため複数回に分けて掲載をしているので、これまでを未読の方は下の記事からどうぞ。
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今回は黄檗希運(おうばく・きうん)禅師と南泉普願(なんせん・ふがん)禅師のやりとりが中心となっている。
そのなかでも、特にテーマとなるのが「定慧等学、明見仏性」という言葉。


簡単に訳せば「坐禅と智慧とを学び、仏性が明らかになる」というほどの意味となるが、その理解の仕方は間違いだとするのが今回の道元禅師の主張である。
しかし「坐禅と智慧とを学び、仏性が明らかになる」のでないのなら、一体この「定慧等学、明見仏性」という言葉をどう解釈すべきなのか。
今回もまたこれまでと同様に、いかにも道元禅師らしい考え方が述べられる内容になっている。


45節

黄檗南泉の茶堂の内に在つて坐す。南泉、黄檗に問ふ、定慧等学、明見仏性。此の理如何。
黄檗云、十二時中一物にも依倚せずして始得ならん。
南泉云く、便ち是れ長老の見処なることなきや。
黄檗曰く、不敢。
南泉云、醤水錢は且く致く、草鞋錢は什麼人をしてか還さしめん。
黄檗便ち休す。
いはゆる定慧等学の宗旨は、定学の慧学をさへざれば、等学するところに明見仏性のあるにはあらず、明見仏性のところに、定慧等学の学あるなり。此理如何と道取するなり。たとへば、明見仏性はたれか所作なるぞと道取せんもおなじかるべし。仏性等学、明見仏性、此理如何と道取せんも道得なり。

現代語訳

ある時、黄檗希運が南泉普願の茶堂で坐禅をしていた。
するとそこに南泉がやってきて、黄檗に質問をした。


「坐禅と智慧とを等しく学んで、そうしてはじめて仏性が明らかになる、という言葉がある。
このことについて、どう思われるか」


黄檗は答えた。
「一日中、何に依るのでもなく、何をするわけでもありません


南泉は重ねて問うた。
「それが仏性についての長老の考えか」


黄檗は答えた。
「考えと言うほどのものでもありません」


すると南泉は黄檗にこう言った。
「水の代金はまあよい。草鞋の代金はどうやって返すつもりか」
と。
これに対して、黄檗は言葉を返さなかった。


ここでいう「坐禅と智慧とを等しく学ぶ」ということは、坐禅ばかりして智慧を学ばないのではいけない、という意味ではない
また、どちらも等しく学ぶことによって仏性が明らかになる、という意味でもない


坐禅と智慧とを分けて考えるのではなく、坐禅のなかに智慧があり、智慧の発露として坐禅があるのだから、坐禅と智慧は一体だ
その一体であるところの坐禅を行う姿こそ、仏性の姿にほかならない。
坐禅によって仏性が姿を現わしているのであり、仏性が姿を現したのが坐禅である


南泉はその上で、この道理をどう思うかと黄檗に問うた。
どうか、というのは、たとえば仏性が明らかに姿を現しているとは、誰が仏性を明らかに現したのかと問うているようなものだ。


坐禅と智慧とを等しく学ぶことで仏性が明らかになる、という世間の言葉で問うのではなく、仏性を等しく学んで仏性が明らかになる、というような切り込んだ言葉で問うてみてもよいだろう。
そして、「このことについてどう思われるか」と問うてみるなら、それも要諦を得た問いと言えるのではないか。

46節

黄檗いはく、十二時中不依倚一物といふ宗旨は、十二時中たとひ十二時中に処在せりとも、不依倚なり。不依倚一物、これ十二時なるがゆゑに仏性明見なり。この十二時中、いづれの時節到来なりとかせん、いづれの国土なりとかせん。いまいふ十二時は、人間の十二時なるべきか、他那裏に十二時のあるか、白銀世界の十二時のしばらくきたれるか。たとひ此土なりとも、たとひ他界なりとも、不依倚なり。すでに十二時中なり、不依倚なるべし。
莫便是長老見処麼といふは、これを見処とはいふまじやといふがごとし。長老見処麼と道取すとも、自己なるべしと囘頭すべからず。自己に的当なりとも、黄檗にあらず。黄檗かならずしも自己のみにあらず、長老見処は露廻廻なるがゆゑに。

現代語訳

黄檗は南泉の問いに対して、「何をするわけでもない」と答えた。
この言葉の意味は何だと思うか。
一日のなかの一時一時を、何に依るでもないというのなら、黄檗は一体何をしていたのか。


南泉が声をかけたとき黄檗は坐禅をしていた。
何をするわけでもないと言うのなら、その坐禅は何だったのか
ここを参究することが肝要である。


おそらく黄檗にとって、それは坐禅ではなかったのだろう。
ただあるべき姿であっただけであり、ことさらに坐禅をしているという意識などなかったはずだ。
仏として生きるのみであり、何かをしているという考えなどなかったことだろう。


つまり、仏性が坐禅という姿であらわれていたのだ
仏として生きるとは、そういうことである。


仏性を現すという生き方において、「何かをする」ということはないのである。
すべてが仏性の現れなのだから、何をするでもない。
ただ仏として生きているのみだ。


そうであるから、一日のなかで特別な時間などあるはずもない。
一時一時を仏として生きるとき、時間はすべて仏の時間となる。
仏として生きるのに、どこか特定の場所でなければならないということも、もちろんない。


黄檗が言う「一日」とは、人間の世界の一日だろうか。
それとも特別な世界の一日か。
あるいは神仏の世界の一日か。


どれでもよい。
どこであろうと、いつであろうと、依りかかるべきものなど黄檗にはない。
自分自身が仏として生きるとき、どうしてさらに仏に依りかかるなどということがあるだろうか
自分と仏とは別ではないのだ。


南泉は黄檗にこう問うた。
「それが仏性に対する長老の了見か」
と。


長老とよばれたのはもちろん黄檗であるが、黄檗だけが長老なのではない。
ここで言う長老とは、「真実を知る者」というほどの意味と受け取っておけばいいだろう。
真実を知る者は黄檗だけではない。


真実を知る者はこれまでにもいた。
歴代の祖師方は、みな仏であった。
真実が眼の前に広がるものである以上、それは見ようとすれば誰にでも見えるものであり、したがって真実は誰のものでもないのである。


47節

黄檗いはく、不敢。
この言は、宋土に、おのれにある能を問取せらるるには、能を能といはんとても、不敢といふなり。しかあれば、不敢の道は不敢にあらず。この道得はこの道取なること、はかるべきにあらず。長老見処たとひ長老なりとも、長老見処たとひ黄檗なりとも、道取するには不敢なるべし。「一頭の水牯牛出で来りて吽吽と道ふ」なるべし。かくのごとく道取するは、道取なり。道取する宗旨さらに又道取なる道取、こころみて道取してみるべし。

現代語訳

「それが仏性に対する長老の了見か」
と問われた黄檗は、
考えと言うほどのものでもありません
と答えた。


この答え方は世間でいうところの謙遜に似ている。
本当は「そうだ」と答えたいところだが、謙遜して「それほどでもない」と言う。
こういう答え方は珍しいものではなく、当時の中国にもあった。


しかし、ここで黄檗が答えた言葉は、単なる謙遜の言葉などではない。
黄檗はそう答えるよりほかに答えようがなかったのだ。
黄檗は真実をそのまま答えたまでであり、それは黄檗の考えと呼ぶべきものではない。
真実がそうであるから、そうであると答えただけだ。


一頭の牛が出てきて「モーモー」と鳴く。
牛は何か考えがあって、「モーモー」と鳴くのではない。
「モーモー」と鳴く生命であるから「モーモー」と鳴いている。
黄檗の答えもこれと同じである。


真実をどう言葉で言い表すか
どのような言葉を発っせれば、真実を言えるのか。言えたことになるのか。
ものの言い方は無尽蔵で、表現は極まるところがない。
試しに何か一つ、真実を言葉で言いあらわしてみたいものだ。

48節

南泉いはく、醤水錢且致、草鞋錢教什麼人還。
いはゆるは、こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめんとなり。この道取の意旨、ひさしく生生をつくして参究すべし。醤水錢いかなればかしばらく不管なる、留心勤学すべし。草鞋錢なにとしてか管得する。行脚の年月にいくばくの草鞋をか踏破しきたれるとなり。いまいふべし、「若し錢を還さずは、未だ草鞋を著かじ」。またいふべし、両参輪。この道得なるべし、この宗旨なるべし。
黄檗便休。これは休するなり。不肯せられて休し、不肯にて休するにあらず。本色衲子しかあらず。しるべし休裏有道は、笑裏有刀のごとくなり。これ仏性明見の粥足飯足なり。

現代語訳

南泉はさらにこう言った。
「水の代金はまあよい。草鞋の代金はどうやって返すつもりか」
と。


この言葉は、人生をかけて学んでいかなかければならない言葉である。
水の代金とは何なのか、草鞋の代金とは何なのか
それらを心に留めて学び続けるとはどういうことなのか。


我々は生き続けるなかで数え切れない数の草鞋を履き潰してきた。
もし草鞋の代金を返さなければ、すなわち恩に報いる力量を示さなければ、草鞋を履いて修行を重ねてきたなどとは到底言えない。
どちらにしろ、また2、3足ほど草鞋を買って、修行に参じるまでだが。
そうでなければ仏道を踏破することなどできはしない。


それで黄檗はこの言葉にどう対峙したか。
「水の代金はまあよい。草鞋の代金はどうやって返すつもりか」
と言われ、黄檗は言葉を発しなかった


言葉を発しなかったのは、何も答えることができなかったという意味ではない。
黄檗はこれ以上何を言う必要もないとわかったから、何も言わないという答えを示したのだ。
和やかに黙する内に、南泉を切り倒す刀が潜んでいたことだろう。


なんとも素晴らしいやりとりなことだ。
黄檗はまさに仏性を余すところなく説いている。
すべてが満ち足りている。

49節

この因縁を挙して、潙山、仰山にとうていはく、「是れ黄檗他の南泉を搆すること得ざるにあらずや」
仰山いはく、「然らず。須く知るべし、黄檗陷虎之機有ることを」
潙山いはく、「子が見処、恁麼に長ずること得たり」
大潙の道は、そのかみ黄檗は南泉を搆不得なりやといふ。
仰山いはく、黄檗は陷虎の機あり。すでに陷虎することあらば、捋虎頭なるべし。
虎を陷れ虎を捋る。異類中に行く。仏性を明見しては一隻眼を開き、仏性明見すれば一隻眼を失す。速やかに道へ、速やかに道へ。仏性の見処、恁麼に長ずることを得たり、なり。
このゆゑに、半物全物、これ不依倚なり。百千物、不依倚なり、百千時、不依倚なり。このゆゑにいはく、籮籠は一枚、時中は十二、依倚も不依倚も、葛藤の樹に依が如し。天中と全天と、後頭未だ語あらず、なり。

現代語訳

南泉と黄檗のやりとりについて、ある時、潙山が弟子の仰山に質問をした。
「黄檗は南泉の意図を摑むことができなかったのだろうか」
と。
しかし仰山は「そうではないでしょう」と言い、それを否定した。


「黄檗には虎を捕まえるだけの力量がある。そうではないでしょうか」
仰山がそう言うと、潙山はその言葉を褒めた。
「お前は私の弟子ながら、すばらしい見識を具えているな」
と。


潙山は、黄檗と南泉のやりとりを、黄檗が南泉を捕まえることができなかった話として理解していた。
しかし仰山は反対に、黄檗が南泉を捕まえた話として理解していた。


もし黄檗に南泉を捕まえるだけの力があったのなら、次は虎の頭をなでてやるだけの力量を持たねばならない。
虎を蹴落とす力量があるなら、虎をなでる慈悲もなければならない
剛だけでも、柔だけでもいけない。


仏性を明らかに見ることのできる眼を開き、虎を捕まえることができたなら、次はその眼を閉じて、捕まえた虎をなでてあげることだ。
虎を捕まえる力にばかり偏っていてはいけない


仰山よ、そなたはこれについてどう思うか。
何か答えてみよ。
「すばらしい見識を具えている」と言われるほどの人物なのであれば。


虎を捕まえるだけでは半分の力量である。
虎をなでてこそ完全な力量となる。
しかしながら、どちらにしても黄檗はその力量に依りかかることをしない


何にも依りかからない。
常に依りかからない。


煩悩という区別さえせず、常に仏として生き、仏性だとか仏性でないとかということに煩うことなく、藤の蔓が樹に巻き付いてあたかも樹と一体となっているかの如く、すべてひっくるめての仏性を体現して生きている


ここまで言えば、もう他に何も言うべき言葉など残ってはいない。