仏暦とは? ブッダ(お釈迦様)が亡くなった年は何年?
仏教の話、そのなかでも特にブッダ(お釈迦様)の話をするときに、
「今から2500年ほど前に、ブッダと呼ばれた人がいました」
と、ほとんどテンプレのように「ブッダ=2500年前」という紹介の仕方をすることがある。
が、しかし、この「2500年前」というブッダの紹介の仕方は、おそらくやめたほうがいい。
なぜかと言えば、「2500年」という数字に確固たる根拠がないからである。
ブッダの生没年については様々な研究者が様々な説をとなえているが、そのなかに有力な説はあっても、「これが正しい」と確定されるような説はない。
あるとすれば、
「あっちの説よりかはこっちの説のほうが可能性が高い」
というような「%」の感覚に近いものであり、最終的な判断は各宗派や団体、あるいは国ごとの選択に委ねられているのが現状だ。
そしてこのブッダの生没年と密接な関係にあるのが、仏教独自の紀年法である仏暦である。
仏暦
現在の日本で用いられている紀年法は、おもに西暦と和暦の2つ。
ご承知のとおり、西暦はキリストの生まれた年を紀元とした紀年法で、和暦は元号と年数を用いた日本独自の紀年法。
実生活上でこれら2つ以外の紀年法が用いられることはまずないが、存在としてはほかにも紀年法はある。
その1つが、たとえば仏暦。
西暦がキリストの生誕を紀元としているのに対し、仏暦はブッダの入滅の年、すなわちブッダが亡くなった年を紀元とした紀年法である。
そのため仏暦は仏滅紀元とも呼ばれている。
キリスト教と仏教のどちらの暦を用いるかという点でのみ考えるなら、日本は仏教の暦であってもいいように思うが、すでに西暦は世界基準となってしまっているので、仏暦が今さら太刀打ちできるような状況ではない。
それに、西暦のように普及に遅れをとったから太刀打ちできないという理由のほかに、じつはもう1つ大きな問題が仏暦には存在する。
それは暦という性格上、極めて根本的な大問題で、何かというと、冒頭でも述べた「ブッダの亡くなった年が正確にわからない」という問題である。
仏典や碑文などに残されている記述をもとにブッダの生没年を特定しようとする研究はもう百年以上も前から行われているが、研究のアプローチが異なるたびに推定される年代は変わっていった。
結局、確定にはいたらず、おおよそこのあたりだろうといういくつかの説が残ることとなった。
なかでも特に有名な入寂年は、下の3つ。
- 紀元前544年 : 南伝仏教説
- 紀元前485年 : 『衆聖点記』説
- 紀元前383年 : 中村元説
南伝仏教説:紀元前544年
南伝仏教(上座部仏教)ではパーリ語経典が用いられているが、このパーリ語経典を参考にしてブッダの生没年を割り出したのが南伝仏教説である。
南伝仏教説では、ブッダが亡くなった年は紀元前544年と考えられている。
ただし、亡くなった年(前544年)を仏暦の元年と考えているのはミャンマーやスリランカであり、亡くなった年の翌年(前543年)を元年と考えるタイ、カンボジア、ラオスとは、仏暦における元年が1年ズレている。
亡くなった年が1年目なのか、それとも0年目なのか。
この考えの違いでズレが生じているわけであるが、これは我々の身近なところでもよく疑問に思われることがある。
たとえば、故人が亡くなって1年経ったときに1周忌があり、2年経ったときに3回忌があるという、3回忌法要までの期間(2年)を疑問に思われる方は少なくないのではないだろうか。
1周忌というのは「忌日から1年経った」という意味であるのに対し、3回忌は「3回目の忌日」という意味。
1周忌のほうの説明は不要だろうが、3回忌は少々わかりにくい。
そもそも「忌」というのは故人が亡くなったことを意味しており、したがって1回目の忌日は故人が亡くなったその日を指している。
つまり命日がそのまま一回忌。
すると、命日から1年が経過した一周忌は、2回目の忌日となる。
したがって1年後の一周忌が二回忌となる。
以後、同じく2年後が三回忌となる。
一周忌と一回忌では、意味が異なるということだ。
ほかにも、人は0歳で生まれて1年経ったら1歳になるが、小学校に入学するときは0年生ではなく1年生が最初となる。
0を基点とするか、1を基点とするか。
そのような問題が上座部仏教における仏暦にも影響を与えているわけである。
ただまあ亡くなった年自体を紀元前544年と考えているのは共通なので、仏滅紀元問題(仏暦元年問題)にはこれ以上深入りしないでおこう。
『衆聖点記』説:紀元前485年
南アジアに伝わった上座部仏教とは別に、仏教にはもう1つ大きな伝播の流れがある。
それが我々日本の地にも伝わっている北伝仏教、つまりが大乗仏教の流れである。
そしてこの北ルートで伝わった仏教経典の『衆聖点記』の記述をもとにブッダの生没年を割り出したのが『衆聖点記』説になる。
『衆聖点記』説では、ブッダの亡くなった年は紀元前485年と考えられている。
『衆聖点記』説の着眼点はちょっと面白い。
この説で根拠になっているのは「点」なのだ。
ブッダが亡くなった後、毎年の夏安居(雨期の定住修行)を終えるたびに、ブッダの弟子のなかの長老が律典に点を記したという『衆聖点記』の記録に従って算定すると、亡くなった年が紀元前485年になるのである。
ただしこの説には、
「まだこの頃には成文化された律典がそもそもないはず」
といったツッコミどころもあり、信憑性の疑わしいところもある。
ちなみに、『衆聖点記』を根拠にするわけではなくても、ブッダ入滅の時期を紀元前480年頃と推定する説は多い。
なかでも特によく目にするのは紀元前486年である。
中村元説:紀元前383年
言わずと知れた仏教学者、中村元博士の説は、ブッダが入滅してからアショーカ王が即位するまでに5人の王がいたことを示す資料を根幹に据え、その他経典等の記述を考察して割り出した生没年である。
そしてこの中村元説によれば、ブッダが亡くなったのは紀元前383年だとされる。
ただしこの中村説には前身があり、宇井伯寿博士の研究がもとになっている。
宇井説は上記の方法によって入滅の年を紀元前386年と推定したのだが、中村説はこの宇井説のアショーカ王即位までの期間を若干修正して紀元前383年としたもの。
紀元前383年というのは、『衆聖点記』説よりも102年後世であり、南伝仏教説とは161年もの開きがある。
しかしこの中村説は最有力と考えられるようになり、たとえば曹洞宗が発行している仏教の教科書『仏教概論』では、
「釈尊は紀元前383年、80歳の生涯を閉じられました」
と、中村元説にしたがって入寂年が明記されている。
異なる仏滅紀元
最有力と考えられる中村元説(紀元前383年)があるものの、実際には宗派や国や団体によって採用するブッダの入寂年説は異なる。
前述のように、南伝仏教では紀元前544(543)年を仏暦の元年と定めている。
全日本仏教会という、日本の主要な59宗派、36都道府県仏教会、10仏教団体、の合計105団体(平成29年9月29日時点)が加盟している、日本の伝統仏教界における唯一の連合組織も、紀元前544年を仏暦の元年としている。
他方、たとえば私が属している曹洞宗では、教科書『仏教概論』に記載してある入寂の年は紀元前383年。
また、同じ曹洞宗が毎年発行している手帳には、西暦2018年の手帳になぜか
「仏紀 2584年」
と記されている。
これは入寂の年を紀元前486年とし、なおかつ入寂ではなく降誕の日、つまりはブッダが生まれた日を紀元として考えた仏暦である。
入寂年の計算式を示すと、
2584年-2018年-80年=紀元前486年
となる。
80年というのは、ブッダが亡くなった歳の年齢。
ブッダは80歳で亡くなった。
したがって、紀元前486年から80年遡り、ブッダの生まれた年を計算すると……
486年+80年=566年
紀元前486年説の、ブッダの生まれた年は紀元前566年。
したがって、紀元前566年を基点に数えると、西暦2018年は仏紀2584年となるわけだ。
仏暦は仏滅紀元だけではなく、西暦がキリストの生誕を紀元としているように、仏暦でも生誕を紀元とする考え方もあるようである。どうやら。
同じ曹洞宗が発行しているにも関わらず、なぜ紀元前383年説と紀元前486年説という異なる説を根拠とした記載があるのかは解せないが、とにかく宗派や国や団体によって仏暦の紀元は異なっている。
ブッダの時代の適切な紹介の仕方
ブッダが亡くなったとされる上記の3つの説の年が、2018年現在から遡って何年前になるのかというと、
- 紀元前544年 → 2562年前
- 紀元前485年 → 2503年前
- 紀元前383年 → 2401年前
となる。
「2500年前」というブッダの紹介をすれば、紀元前485年説のちょうどブッダが亡くなった直後あたりを指すことになる。
しかし上記の3つの年代はあくまでもブッダが亡くなった年であって、ブッダの紹介をするならブッダが生きた時代を伝えるのでなければおかしいだろう。
ブッダの生涯が80年であったことはどの経典でも共通しているため、それを加味して存命期間を割り出すと下のようになる。
- 紀元前544年 → 2642年前~2562年前
- 紀元前485年 → 2583年前~2503年前
- 紀元前383年 → 2481年前~2401年前
……うーん、わかりにくい。
表記の仕方を変えてみよう。
- 紀元前624年~前544年
- 紀元前565年~前485年
- 紀元前463年~前383年
……相変わらずわかりにくい。
こんな数値を口で説明されても、ちょっとも頭に入ってこない。
しかも2500年前(紀元前482年)がどの説にも該当していないではないか。
しょうがないので世紀で示してみよう。
- 紀元前7~6世紀
- 紀元前6~5世紀
- 紀元前5~4世紀
おぉ、アバウトだがわかりやすい。
が、しかし、あまりにも年代に幅がありすぎるか。
「4~7世紀の人」とブッダの紹介をしてしまったら、まるでブッダが4世紀に跨がって生きていたかのように聞こえなくもない。
いくらなんでも長寿に程があるだろう。
そうなるとこれはもう、3つの説すべてに一応該当する
「紀元前5、6世紀」
と紹介するのが、あらゆる角度から考えて最適といえるような気がする。
よし、これでいこう。
結論
ブッダがいつ頃の時代を生きたのかを説明するとき、「今から2500年前の頃」という話し方をすると、それは2018年現在では紀元前482年頃ということになる。
しかし紀元前482年は、上記の3つの説のうちのどの説にも当てはまっていない。
「頃」なのだから紀元前485年説に相当すると考えることもできるが、そうなると該当する説が1つに限定されてしまう。
また、2500年前という紹介は、当然のことだが年数の経過とともに指し示す年が進んでいく。
2018年で2500年前と言うと紀元前482年だが、2019年に2500年前と言うと紀元前481年を指すという意味である。
どれだけ引っ張ったとしても、50年経てば2600年前と紹介しなくてはならなくなるわけで、2500年前なのか2600年前なのか困惑してしまいそう。
さらに、ブッダの人生には「80年」という幅があるのだから、「○○年頃」とピンポイントで紹介をするのはそもそも不適切。
示すべきはピンポイントの年ではなく、ブッダの生涯80年全体であるべきなのだから、そもそも一点で示すのではなく幅をもたせて示したほうが適切だろう。
したがって、「紀元前5、6世紀」と世紀単位で示す以外に、ブッダの時代を簡単かつ適切に説明する方法はないと、考えられる。