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正法眼蔵第三「仏性」巻の概要と現代語訳と原文

正法眼蔵,仏性の巻

「仏性」巻の概要と現代語訳と原文

『正法眼蔵』仏性の巻の主題となるものは、まさに題にあるとおり「仏性(ぶっしょう)」である。
古来、仏教というものが悟りを開いて仏となることを目指す教えであることを考えたとき、仏性は必然的にその中心的な概念となってくる。
したがって、この仏性の巻を道元禅師の思想の中枢に位置するものの1つとして理解することは、ごく自然な判断であると考えられる。


しかしながら、道元禅師がいうところの仏性は、伝統的な仏教において示される仏性とは幾分か性質が異なっていると考えざるをえない。
道元禅師自身は、自らの仏性に対する理解を釈迦牟尼仏の真意と捉えてこの仏性の巻を著したようだが、それをそのまま受け入れることは難しい。



伝統的な仏教における仏性の理解と、道元禅師の理解とでは何が違っているのか。
それはこの巻の冒頭に書かれている「一切衆生、悉有仏性(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう)」をどう読むかという点に端的にあらわれている。


この「一切衆生、悉有仏性」という言葉を、伝統的な仏教では訓読して「一切の衆生は、悉く仏性を有する」と解釈してきた。
人には誰もが仏となる性質、つまり仏性が具わっているのだという解釈である。
だからこそ仏道修行によってその仏性を磨き、悟りを開いて仏になることが伝統的な仏教における僧侶の目標であった。


しかし道元禅師は「一切衆生、悉有仏性」の語をそう読むべきではないと考えた。
これは訓読せず、むしろ音読のままにしたほうが適切に理解できるのだと。
つまり「一切衆生は悉有仏性である」と読むべきというのが禅師の主張であり、この仏性の巻で語られる重要なテーマでもある。


その理由の詳細は道元禅師自身の言葉と現代語訳によって説明するとして、ここではその大まかな理由を先に示しておきたい。
道元禅師が「悉く仏性を有する」と読むことに強い懸念をあらわすのは、「有する」と言ってしまうと、あたかも仏性というものが物体・非物体を問わずとも実際に存在し、それを我々人間が実際に持っているような感覚を生じさせてしまうからだと思われる。


これは、いわゆる「心」のイメージに近いのではないかと思う。
ひとたび心というと、私たちは自分の体のなかにあたかも「心」というものがあるような感覚を生じさせてしまうことがある。
おそらく多くの方は、心というと心臓のあたりをイメージしたり、あるいは脳をイメージしたりするのではないだろか。


それと同じで、仏性と言ったとき、やはり私たちは仏性というものを心と同じようなイメージで捉え、自分のなかに仏性というものがあるのだと錯覚してしまいかねない。
または、「仏になる性質」が自分には具わっているのだという認識を持つかもしれない。
しかし道元禅師はそれを断じて許さないのである。


仏というものが、今の自分とは別にある深淵な境地であるとか、高度に位置する精神状態であるといった理解を、道元禅師は一刀両断に切り捨てる。
自己と仏とを別物に捉え、仏や真理といったものを得るというような理解は、この語の真意ではないと。
つまり自己と仏が同一のものであり、あらゆるものを仏のあらわれとして捉えることが理解のベースになるわけだ。


物事を2つに分けて見ること、相対的な物の見方というのを禅は排するが、これは言語において物事を理解しようとする上では、非常にやっかいな枷にもなりえる。
物事を区別すること、「名付け」こそが言葉というものの役割にほかならないからである。


言語によって相対を離れた事象を扱おうとすると、たとえば「有でなく、また無でもない」といった表現に頼らざるをえなくなることが多いが、これはもう言葉の宿命とすら思えてくる。
言葉によって真理をあらわすことは難しいが、それでも人に何かを伝えるためには言葉を使う以上に有効な方法はない


言葉の限界を知りつつ、それでも言葉によって真理に肉迫しようとする道元禅師の熱意を行間に感じるたび、私もまたその足跡を辿ってみたいという思いを強くする。
仏性の巻に登場する言葉は他の巻以上に険しいが、それもまた道元禅師が考え抜いた末の言葉であると思えば、むしろ険しいのは当然であるのかもしれない。


※仏性の巻は他の巻に比べて文量が多いため、複数回に分割して現代語訳を掲載することとする。

第三「仏性」

1節

釈迦牟尼仏言、
「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」
これ、われらが大師釈尊の師子吼の転法輪なりといへども、一切諸仏、一切祖師の頂寧眼睛なり。参学しきたること、すでに二千一百九十年(当日日本仁治二年辛丑歳)正嫡わづかに五十代(至先師天童淨和尚)、西天二十八代、代代住持しきたり、東地二十参世、世世住持しきたる。十方の仏祖、ともに住持せり。

現代語訳

お釈迦様は次の言葉を残している。

「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」

一切の存在はすべてこれ真理そのものである
あらゆるものが真実のままに存在しているというこの真理は、決して変わることがない。
およそ、そのような意味の言葉といえるだろう。


この言葉こそ、我々僧侶が師と仰ぐお釈迦様の勝れたる一語である。ライオンの咆哮を思わせる、勝れたる伝道の言葉である。
これまでに悟りを開き仏となった方々や、仏法を今に伝え続けた祖師方が、もっとも究め尽くしてこられた要こそ、この言説にほかならない。


仏教が興り、現在(当時1241年)にいたるまでにすでに2190年ともいわれる歳月が経た。
師から弟子へと受け嗣がれてきた仏法は、約50代を重ねることで我が師である天童如浄禅師へと伝わった。
インドにおいて28代、中国において23代の祖師方が、教えを受け嗣ぎ途絶えることなく次の者へと伝え続けてこられた尊い結果である。


そして今や、悟りを開き仏となった人々はみな、お釈迦様が残した言葉とともにこの世界に住している。

2節

世尊道の一切衆生、悉有仏性は、その宗旨いかん。是什麼物恁麼来(是れ什麼物か恁麼に来る)の道転法輪なり。あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。 悉有の言は衆生なり、群有也。すなはち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。単伝する皮肉骨髓のみにあらず、汝得吾皮肉骨髓なるがゆゑに。

現代語訳

お釈迦様が残した言葉「一切衆生、悉有仏性」の真意とは何だろうか。
それは、中国における第6祖、大鑑慧能が弟子の南嶽懐譲に問いかけた言葉「是什麼物恁麼来」と趣旨を同じくする。


慧能は「何者が何をしに来たのか」と南嶽に問いただすことで、自分という存在を問う大命題を南嶽に突きつけた。
自分という、この存在が何者であるのか
自分とは何なのか。畢竟、存在とは何なのか。
仏道を歩む上で、決して避けて通ることのできない関門である。


人間という存在。
それは衆生と呼ばれたり、有情と呼ばれたり、群生と呼ばれたり、群類と呼ばれたりする。


お釈迦様が残した「悉有仏性」という言葉、つまりは「あらゆるものが仏であり真理である」というところの「あらゆるもの(悉有)」が指しているのは、衆生や群類と呼ばれる我々人間をも当然に含む。
そうした上で、あらゆるものは仏であり真理であると言っているわけだ。
この言葉を体現するとき、この自分こそが身も心もまさしく仏のあらわれとして存在していることを、人は明らかに知るのである。


中国の初祖である菩提達磨は、4人の弟子に仏法が伝わったと宣言したが、何も仏法を受け嗣いだのは4人に限られた話ではない。
誰もが達磨の法を受け嗣いでいる。
法を体現するとき、人は仏と異ならない。


3節

しるべし、いま仏性に悉有せらるる有は、有無の有にあらず。悉有は仏語なり、仏舌なり。仏祖眼睛なり、衲僧鼻孔なり。悉有の言、さらに始有にあらず、本有にあらず、妙有等にあらず、いはんや縁有、妄有ならんや。心・境・性・相等にかかはれず。しかあればすなはち、衆生悉有の依正、しかしながら業増上力にあらず、妄縁起にあらず、法爾にあらず、神通修証にあらず。衆生の悉有、それ業増上および縁起法爾等ならんには、諸聖の証道および諸仏の菩提、仏祖の眼睛も、業増上力および縁起法爾なるべし。しかあらざるなり。盡界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず、「直に根源を截るも未だ識らず、忙忙たる業識幾時か休せん」なるがゆゑに。妄縁起の有にあらず、遍界不曾藏のゆゑに。遍界不曾藏といふは、かならずしも満界是有といふにあらざるなり。遍界我有は外道の邪見なり。本有の有にあらず、亘古亘今のゆゑに。始起の有にあらず、不受一塵のゆゑに。條條の有にあらず、合取のゆゑに。無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来のゆゑに。始起有の有にあらず、吾常心是道のゆゑに。まさにしるべし、悉有中に衆生快便難逢なり。悉有を会取することかくのごとくなれば、悉有それ透体脱落なり。

現代語訳

知っておかなくてはならない。
ここでいう悉有とは「悉くが真理を有している」というような、「有る無し」としての有ではないことを。


「悉有」とは一つの仏の言葉であり、仏祖が究め尽くしてきた真理であり、人間の真理そのものを示す言葉である。
仏法を学ぶすべての者が真っ向から向かい合って参究すべき言葉にほかならない。


有とは、ある時からはじまって有るという意味ではない。
もともと存在するという意味の有るでもない。
空という存在の仕方で有るという意味でもない。
縁によって有るという意味でもない。
もちろん、迷盲によって有ると錯覚することでもない。


また、自分の心にあるのでもなく、認識の対象としてあるのでもなく、事物の本性としてあるのでもなく、姿や形としてあるのでもない。
あるいは、身と口と意での行いによって生じた業の積み重ねによってあるのでもなく、妄念した縁起によってあるのでもなく、自然のなかにあるのでもなく、特殊な神通力のようなものによってあるのでもない。


人々が真実そのもの、仏そのものであるというとき、それが業の積み重ねや縁起などによってもたらされたものだとするならば、歴代の祖師方の悟りもまた業の積み重ねや縁起などによってもたらされたものだということになる。
しかし、そうではない。


全世界ことごとく全て、外から真理を得るということはありえないのだ。
今ここにある真理の絶対性を、外から成り立たせているものがあると考えるのは誤りである。
なぜ人がここのところを思い誤るかというと、妄念の根源から離れていても仏性であるところの自己に気付かず、次々と生み出される業の連鎖が片時も休むことなく続いていくためである。


すべてが真理のあらわれであるとは、盲目的な縁起によって起こることではない。眼前にあらわれている真理を隠すものなどないからである。
世界は何も隠してはいないが、しかし自分で把握できる世界に真理が有ると言うべきでは、やはりない。
自分にとって有るように思えるというのは、これはもう仏の教えとは別物というべきだろう。


すべてが仏であり真理であるとは、いつからかはじまったことではない。今も昔も変わることなくそうであった。
人がそのように見たときに真理が知覚されるのではない。真理は知覚の対象ではないからである。
あるいは個々に真理が存在するのでもない。すべては1つに総合されている。


有る、と認識することによって道を踏み外してしまうがために、祖師方は「何者が何をしに来たのか」と訊ねて弟子を目覚めさせ、「平常心こそが仏道である」と答えて真理を示してきた。
それらすべてから学びなさい。


仏と衆生は異なるものではないのだ。
異ならないのに、どうしてどちらか一方を「有る」とすることができるだろうか。「有る」というなら、「無い」ことがあるとでもいうのだろか。


このようにして「一切衆生、悉有仏性」といわれるところの真意を理解するなら、衆生はすでに仏としてあり、かつ、仏であることを忘れ、仏から抜け出して、真理のままにあることだろう。


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