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正法眼蔵「仏性」巻の現代語訳と原文 Part⑩

正法眼蔵,仏性の巻

正法眼蔵「仏性」巻の現代語訳と原文 Part⑩

『正法眼蔵』「仏性」の巻の現代語訳の10回目。
仏性の巻は文字数が多いため複数回に分けて掲載をしているので、これまでを未読の方は下の記事からどうぞ。
ちなみに、仏性の巻は11回が最後となるため、次回が最終回。
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それで、10回目の今回には有名な「狗子仏性」の話が登場する。
趙州和尚に対して「犬にも仏性があるか、ないか」と質問をするという、禅問答のなかでも非常に有名な問答の1つである。
この問いに対し、趙州和尚はある時は「無」と答え、またある時には「有」と答える。
どっちじゃい! となる。


道元禅師はこうした趙州和尚の言葉を、「有る」「無し」と読むべきではないという。
「無い」と言っているわけでも、「有る」と言っているわけでもないのだと。
では「無」「有」とは何か、となるわけだが、これはこれまで何度も登場してきた「有仏性」「無仏性」と同じ意味の言葉と受け取るべきなのだと考えられる。
では、内容に入っていこう。


50節

趙州真際大師にある僧とふ、「狗子にまた仏性有りや無や」
この問の意趣あきらむべし。狗子とはいぬなり。かれに仏性あるべしと問取せず、なかるべしと問取するにあらず。これは、鉄漢また学道するかと問取するなり。あやまりて毒手にあふ、うらみふかしといへども、三十年よりこのかた、さらに半箇の聖人をみる風流なり。

現代語訳

趙州禅師に対して一人の修行僧が次のような問いを投げ掛けた。
狗子に仏性があるでしょうか、ないでしょうか


この問いが何を言わんとしているのかを考えてみよう。
まず、狗子とは犬のことである。
したがってこれは犬の仏性について問うているわけであるが、犬に仏性があるはずだと言っているわけではない。
かといって、犬に仏性はないはずだと言っているのでもない。


では一体何を問うているのか。
これは、「悟った者はさらに仏道を学ぶのか」と問うているのと同じであると受け取るべきである。
仏性に対して「仏性はあるか、それともないのか」と問うているのと同じということである。


なかなかに鋭い問いではあるが、相手が悪かったというべきか。
それで趙州禅師をやり込めることはとてもできない。
二十年や三十年の修行を重ねて、ようやく仏道を踏み外すことのない者になると言われることがあるが、修行僧は趙州禅師の姿に年月の深みを見い出したに違いない。

51節

趙州いはく、無。
この道をききて、習学すべき方路あり。仏性の自称する無も恁麼なるべし、狗子の自称する無も恁麼道なるべし、傍観者の喚作の無も恁麼道なるべし。その無わづかに消石の日あるべし。
僧いはく、「一切衆生皆有仏性、狗子甚麼としてか無き」
いはゆる宗旨は、一切衆生無ならば、仏性も無なるべし、狗子も無なるべしといふ、その宗旨作麼生、となり。狗子仏性、なにとして無をまつことあらん。
趙州いはく、「他に業識在ること有るが為なり」
この道旨は、為他有は業識なり。業識有、為他有なりとも、狗子無、仏性無なり。業識いまだ狗子を会せず、狗子いかでか仏性にあはん。たとひ双放双収すとも、なほこれ業識の始終なり。

現代語訳

趙州禅師は、僧の問いに対して「無」と答えた。
はたして「無」と答えた趙州禅師の意図は何なのか。
この一文字には学ぶべきことがたくさんある。


趙州禅師は仏性が無いと言っているわけではない
つまり、仏性を「無」と呼ぶところに学ぶべきものがあるのである。
犬を「無」と呼ぶところに学ぶのでもよいだろう。
あるいは仏性でも犬でもないものが出てきたとしても、やはりそれを「無」と呼ぶのはなぜか。
存在の本質を突き詰めていけば、石を石と呼ばなくなる日がやってくることを知らねばならない


修行僧は趙州禅師の「無」に対して、次のように問いを重ねた。
「一切衆生が仏性であるのに、なぜ犬だけ無なのだと言うのでしょうか」
一切衆生が「無」であれば、仏性も「無」であり、犬も「無」ということならわかる。
しかし、一切衆生が「有」で、犬は「無」という道理はおかしいのではないかと主張しているわけである。


一切が仏性、犬も仏性、あらゆるものが仏性。
そうであるのに、なぜそこに「無」をはさむ必要があるのか
この修行僧はそこに納得がいかないのだろう。
仏性に対して、あえて「無」と言う必要などないという主張である。


これに対して、趙州禅師は次のように言葉を返した。
犬は仏性というものを認識するのだろうか


犬にも精神作用はある。
しかし、犬はその作用によって仏性を認識することはない
仏性とはこういうものだ、と考えることはない。
そして犬が仏性を区別することがないように、犬が犬を区別することもない。


しかしそれなら、犬を犬と認識することがなければ、犬とは一体何なのか。
「無」である。
では「無」であるところの犬にとって、仏性とは何なのか。
これも「無」である。
詰まるところ、言葉というのは意識作用なくしては意味を持たず、意識作用にとってのみ必要な道具であって、必ずしも真実を言い表しているわけではないということである。


犬と仏性と、両方放りだして「無」と言おうと、両方を収めて「有」と言おうと、どちらにしてもそれは精神の作用に終始しているだけだ。
意識作用から離れれば、それらはすべて「何者でもないもの」としか言いようがなくなり、あえて何か言うとすれば「無」としか言いようがない


52節

趙州に僧有って問ふ、「狗子にまた仏性有りや無や」
この問取は、この僧、搆得趙州の道理なるべし。しかあれば、仏性の道取問取は、仏祖の家常茶飯なり。
趙州いはく、「有」
この有の樣子は、教家の論師等の有にあらず、有部の論有にあらざるなり。すすみて仏有を学すべし。仏有は趙州有なり、趙州有は狗子有なり、狗子有は仏性有なり。
僧いはく、「既に有ならば、甚麼としてか却この皮袋に撞入する」
この僧の道得は、今有なるか、古有なるか、既有なるかと問取するに、既有は諸有に相似せりといふとも、既有は孤明なり。既有は撞入すべきか、撞入すべからざるか。撞入這皮袋の行履、いたづらに蹉過の功夫あらず。

現代語訳

別の日に、ある修行僧が趙州禅師に問いかけた。
犬に仏性が有るでしょうか、無いでしょうか
この修行僧は趙州の意図をよく理解した上で質問をしたのだろう。
仏性について問うことは、仏道において日常茶飯事のことなのである。


それで、この時の趙州禅師は「有」と答えた。
ただし「有」と言っても、それは有無の「有」ではない。
犬に仏性が「有る」と言っているわけではない


よくよくこの「有」についても学んでいかなくてはならない。
仏法において「有」とは何なのか。
仏法における「有」こそ、趙州の言い放った「有」である。
犬が「有」であると言うのも、仏性が「有」であるというものも、すべて仏法における「有」である。


そこで修行僧はこう問うた。
「犬に仏性が有るというのなら、どのようにしてこの毛皮のなかに仏性が入っているというのでしょうか


今、犬のなかに仏性があるのか。
古来、犬のなかには仏性があるのか。
すでに仏性は犬にあらわれているのか。
いろいろと疑問に思ったのだろう。


すでに仏性があらわれているというのなら、それはあらゆるものが仏性であると捉えるのと同じようなものである。
あらゆるものが仏性のあらわれであるというのは、まったくその通りで明らかなことである


しかしながら、すでに明らかな仏性を犬に入れるとはどういうことなのか。
入れなければいいのか。
どちらにしても、仏性は入る入らないといった話ではない。
犬の仏性を問うて、それが犬のなかに有る無しの話だと解釈するのは、問題をずいぶんと履き違えてしまっている。

53節

趙州いはく、「他、知りて故に犯すが為なり」
この語は、世俗の言語としてひさしく途中に流布せりといへども、いまは趙州の道得なり。いふところは、しりてことさらをかす、となり。この道得は、疑著せざらん、すくなかるべし。いま一字の入あきらめがたしといへども、入之一字も不用得なり。いはんや「庵中不死の人を識らんと欲はば、豈只今のこの皮袋を離れんや」なり。不死人はたとひ阿誰なりとも、いづれのときか皮袋に莫離なる。故犯はかならずしも入皮袋にあらず、撞入這皮袋かならずしも知而故犯にあらず。知而のゆゑに故犯あるべきなり。しるべし、この故犯すなはち脱体の行履を覆蔵せるならん。これ撞入と説著するなり。脱体の行履、その正当覆蔵のとき、自己にも覆蔵し、他人にも覆蔵す。しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢。いはんや、雲居高祖いはく、たとひ仏法辺事を学得する、はやくこれ錯用心了也。
しかあれば、半枚学仏法辺事ひさしくあやまりきたること日深月深なりといへども、これ這皮袋に撞入する狗子なるべし。知而故犯なりとも有仏性なるべし。

現代語訳

趙州禅師は言った。
仏性の人は、あえて罪を犯して衆生の世界へと入っていく
この言葉は、世間では「罪を犯したから畜生に生まれる」といった意味で知られているが、ここは趙州禅師の言わんとすることにしたがうとしよう。


あえて罪を犯すのはなぜか。
このことに疑問を感じない人は少ないだろう。
衆生を救うには、衆生の世界に入って衆生となって救うよりほかに方法がないからである。
仏のままではいけない。
人の世界に生きるのは、人である。


修行僧が「仏性を犬に撞き入れる」と言った、その「入れる」の意味はよくわからない。
仏性を入れるなどということがはたしてありえるだろうか。
自分のなかにある不死の自己を知ることと、犬の毛皮の内側に仏性が入っていることは、同じでない。
不死の自己が何であろうと、それを知る時には外見などに捉われることはない。
毛皮のなかに仏性を入れるなどということではない。


意識の働きがあるからこそ、人はあらゆる存在を具体的な姿で区別する。
その1つひとつの姿に、真実の姿はあらわれている
仏性というなら、その姿に仏性のあらわれを見出すべきであって、修行僧の言う「仏性を撞き入れる」とは、そのように言い改めるべきであろう。


仏性をあらわして仏として生きるとき、自己は仏性となり、他人も仏性となる
仏性から逃れようなどとは、たとえ思ったとしても一体であるからできはしない。
仏性の前を探ったり後ろを探ったりして、仏性そのものを見ようとしない者は、周辺のものに眼を向けるのではなく、はやく仏性そのものを見るようとするべきである。


仏性とは何か。
これを誤ると、学べど探せど迷いは深くなる一方である。
犬の仏性とは何なのか。自分自身で明らかにしなければならない。
意識作用によって意味を持つあらゆる存在は、認識の上では仮の存在かもしれないが、認識の世界で捉えられなければ、仏性そのものである